母子家庭である僕として初めて母親にものをねだるわがままが、Z会をやらせて欲しいということでした。
中学3年を終える頃、自分の目標を決めたときでした。

いまでこそ小学生のコースもあるようですが、その頃のZ会には中学コースすらありませんでした。

中学の頃は、学校へは遊びにいっているようなもので、ただ友人たちとのバカ会話や体を動かすスポーツ的な遊びをすることだけで手いっぱいでしたから、成績もごく普通のど真ん中で中学は終えたのを覚えています。

中学2年生での保護者面談では、家で2時間は勉強させてくださいと担任から指導があったとのことで、当時はどうやって2時間も勉強するのかと思ったものです。

そんな僕が中学を終わる頃に何故目標をはっきり決めたのかには様々な要因がありますし、そんなことは誰もの関心を引くところではないでしょう。

ただ、何となくの打算の気持ちがあったことも否定できませんが、確実にこの決意を支配していたのは、遅ればせながらの社会性の萌芽だったとははっきりと答えることが出来ます。

目標を決めたときが幸いにも高校生になる直前だったということもあり、高校生になるや否やz会を始めさせてもらい、勉強することが意識の中心になりました。

科目は、数学と英語の基礎コースで始め、途中から数学の上級コースと国語基礎コースに替えたように記憶しています。

会報である【増進会旬報】が月3回送られてくるわけですが、英・数・国の各2コース(基礎と上級という感じで選択)の問題と解説が全て書かれていましたので、添削をしてもらうか貰わないかだけの差で、他のコースの問題や解説をも勉強することができたんですね。

それに、コースとしてはありませんでしたが、物理や化学の問題と解説が旬報に掲載されることがスタートした時期でした。
この現代では、経営的にも有り得ないことなのかもしれませんね。

自分の学習の習慣をジワジワと確立していけたことが、Z会を始めたことが契機だとか原因だとかそんなことを一概に決め付けることはできないほど自分の立てた計画と同時進行でしたが、Z会は難攻不落の要塞を攻略するようなつもりで楽しんでいたと思います。

いやもう、「知らないことばかりで感心させられっぱなしだった」と言った方が正確かもしれません。


さて、増進会旬報を通して、東京の小石川高校の方が夏休みに修善寺にあったZ会を訪れるとのことでしたので、その写真を送っていただいたことがあります。

えらく田舎で、事務所も古びた学校の職員室みたいな感じなんだなぁと思ったものでした。
今となれば「古き良きz会」として語られることなのかもしれませんね。

何が良かったのかに対して、ひとえに送られてくるこの増進会旬報だと言ってしまえばガッカリされるでしょうか?
僕個人としては、z会があったからこそ今の自分があるとしか思えないほど、国語力や論理力を鍛えてもらったという以前に、多くの知識を貰いました。

特に、国語からは結果として多くの興味を触発されたように思います。
あの頃は、入試問題にも小林秀雄が多かったですから、z会でも多く採用されていましたね。
あの冗長で難解な文には随分と腹を立たされたものです。
でも、そのおかげで、評論やエッセイや哲学書や人生論をかなり読むことができたんですよね。

z会がなければただの理系バカか事務処理バカにしかなれていなかったとすら思いますし、確実にそうだったでしょう。
それも、元を正せば、国語に限りませんが、結局、問題が非常に良質だということです。

数学に関しても、その良質さと解説の妙味が故に、本質を顕にしてくれるものでした。
数学は3級は取ったのですが、z会を【従】として位置づけていたこともあり、時間的に添削課題を提出出来ないときも多々ありました。
それが少し悔やまれますね。

添削結果で発表される得点の順位に自分が掲載される(ペンネームで)喜びも大変大きなものです。
トップを取れたときは、どれほど嬉しかったことでしょうか?
ただ、僕が満点とれるようなときは、やっぱり単独じゃなく数名居るんですけれどね。

そう言えば、成績上位者常連だったフェリス女学院の●●姫は今どうされているんだろうかと思い出してしまいました。
こんな些細なことが想い出に残るというのもいいものですね。


さて、創業者から後継者にバトンタッチをされる中で、時代の流れや経済の流れとともにz会も変遷を重ねてはおられますが、やはり伝統の硬派ぶりは健在と見えます。

ただ、z会の職員の方からお聞きした『数学力は目に見えて確実に落ちてきている』という現況が耳に残ります。

このことに関しては、僕も大学の研究での小学生の算数に関する生のフィールドデータを見る機会があって、卒倒しそうに驚きましたから実感として実によく納得できるところです。

これに関連して、「よく本はよく読んでいるのに数学の文章題ができない」という悩みを聞きますが答えははっきりしています。
いくら本を読んでいても、気楽に読める小説や物語じゃ論理力には繋がらないということなんですね。

そういった意味で、難い書物を読む訓練はどうしても必要不可欠です。
z会の素晴らしさは、英・数・国全てにあると思うのですが、やはり真骨頂は、問題の上質さとともに添削の丁寧さが最も映える国語だと思います。
今なら社会系科目や論述系科目もそれに当てはまるでしょうね。

本当は、手取り足取りの親切すぎる塾に行くよりも、自分で力を付けた人が最も逞しく育つ。
その手段として利用できるのがz会の最大のメリットなのだと言えるのではないかと思います。

今はどうなのかは分かりませんが、かつては優等生と言うよりインテリ高校生フォーラムのZ会と言った方が正確な表現でした。

全国の精鋭たちの知的レベルの高さに接することで、自分もそうなりたいと願う心も大きなエネルギーの源となるでしょう。

以上、Z会のメリットをまとめておくと下記の3点になるでしょうか。

  • 問題の良質さ・・・英数国全て:数学では本質を顕にしてくれる
  • 添削の丁寧さと限界性・・・国語・社会・論述系の訓練に最適/ポイントは突いても親切過ぎないことが学びの必須条件
  • 旬報(今の呼称は?)・・・解説の面白さ→好奇心の触発・世間の広さを全国レベルで認知

偏差値が高くとも小手先のテクニックや要領大好きの秀才には続かないかもしれませんが、むしろ、本当の実力でそんな彼らを追い越してやれと思う子にはお勧めであることは確信をもって言えます。

大げさかもしれませんが、これからの日本を背負っていく層としてこういった層がもっともっと多くならないことには、より一層難しい局面が深化していくような気がします。

現実世界

学部は違いますが我が後輩(京大情報工学OB)とある臨床医の言をご紹介しておきましょう。

たかが盲腸の診断すらできなくなっている医者が蔓延る世の中で、10人専門家がいれば8人はやぶだといっていいでしょう。
まして、ネット情報に至っては9人はやぶでしょう。

それぞれの周囲を見渡せば本当のプロといえる人はごく一握りだと誰もが知っているはずです。

その中で生活上の問題を切り抜けていくには、俗流社会学や俗流心理学・俗流分子生物学・俗流脳科学・俗流AIなんぞをこねくり回して遊ぶのでなく、知識、感性を自分の責任で磨いて対応するしかないですよね。


いくら教科書や※※※学会で教わったことがないからと言って、臨床経験を積めば、おかしい?と思う筈です。

文献的な情報の受け売りばかりだけで、自分達の頭を使って考えることがなくなっているのが現状です。

世間的には、お賢い人がなれると思われている医学の世界ですら、当事者や見る人が見れば、現実はこんなものです。

あなたの最寄りで、何もかも信頼できるお医者さんを探せれば、それは非常に幸運なことですが、まぁ十中八九紋切り型のことしか言いませんね。

それ自体は何の落ち度もないように見えますが、大いに患者を不利益に導いていることもあることを経験された方も多いのではないでしょうか?

ましてや、生命には関わらない教育の世界では、指導者がやぶである確率など、さらに高いことは目に見えています。

お子さんの成績が上がるための条件は、そもそも真面目にやる気持ちがない場合を除いては、

  • 勉強の仕方の流儀を我がものとして確立する
  • それぞれの実際の学習内容に関して、自分で自分を納得させる理解をする術を会得する

という2点を、自力あるいは第三者のサポートを得て確立するということ以外にはあり得ません。

ところが、そんなところは突いてくれないのが現実社会です。
たいていは、準備された模範解答を恭しくご教示頂いて、エラそうに「俺のようになれるだろ?」というスタンスではないですか?

準備していなければ、どれだけの指導者が慌てふためくことでしょうか?
準備しなければ移動できないこと、及び「それはそれで教育になることを受け入れられない指導者のナント多いことか?」ということが問題なのです。

どんな問題でも、現実には、ことによって他人をあてにすることほど実の無いことはないのは確かですから、先ずは、自分の流儀を曲がりなりにも確立すべく動くのが優先されるべきだと考えます。

何も、他人を信じるなと言っているわけではないことをご理解くださいませ。