発達の3段階を彷彿とさせる言葉とは?
ルソーの言葉に次のような言葉があります。
『私達は2回この世に生まれる。1回目は存在するために、2回目は生きるために。』
僕は、ここに3回目の「生」を追加したいと思うのです。
何故なら、「向上するため」には、3回目の助産を目指さねばならないからです。
目指しても、なかなか達成し切れない高い壁だと思い知らされつつも…。
また、最近読んだ外山滋比古氏の著書に、言葉には3つあると書かれていました。
αの言葉、βの言葉、γの言葉。
僕は、ルソーの1回目の誕生と「αの言葉」、2回目の誕生と「βの言葉」に対応させました。
そして、3回目の誕生と「γの言葉」を対応させれば、少し段階分けの観点が違うとはいえ、僕がここで書いた「学習の発達における三段階」と見事に対応します。
その観点の相違から、僕の「学習の発達における第2段階」は「βの言葉」よりは若干、閾値が高いような気はしますが・・・。
いずれにせよ、回数ではなく、生まれ変わり続ける繰り返しが人を鍛えるものだとつくづく感じ入ります。
さて、僕が「意を決して行動せよ!」と言った意味が分かってもらえたでしょうか?
ビギナーズ・ラック(初心者の幸運)を経験しないことには、勉強など好きにはならないということなんですね。
そして、その経験はダラダラ坂を上りきったところなどにあるものではないということです。
もう一度言っておきましょう!
本書は、まさに、そのビギナーズ・ラック(初心者の幸運)を経験してもらうためにあります。
発達の3段階の3段階目にはなかなか到達できない!
とは言っても、3段階目までにはなかなか到達できるものではないというか、到達したとしても終わりなきものなのですね。
「上には上がいる」君たちにはそう思えるところまで頑張ってほしいと願うだけです。
決して「下には下がいるじゃないか」という考え方に逃げてほしくないのです。
僕たち自身も、第3段階を目指して何とか頑張ってきたつもりですが、その門をくぐれたかくぐれなかったかは微妙なところだと思っています。
所謂「二流止まり」であることは自認しているのですが、社会人としては立派に一流を陰で支える二流の役割を果たしてきた部類であるとは自負しています。
やはり、天分や環境によって如何ともしがたい部分はどうしてもありますから、それは素直に受け入れましょうよ。
そして、自分の稟性や環境の中で、自分の人生のためにも、社会のためにも最大限の努力と精進に励めばいいことなのではないかと思うのです。