まじめに勉強することはダサイのか?

松平先生に、元宇宙飛行士の毛利衛さんとお話されたときのことを聞かせていただきました。

毛利衛さんは、こう語られたそうです。

日本ほどまじめに勉強する人を評価しない国は少ない。

よく勉強だけではなく、他の特技をもった子供達も評価するべきだという論調を耳にするが、事実は全く逆で、スポーツは評価しても、音楽は評価しても、勉強は評価しない。

これが子供達の学力低下につながっているのではないかと思うのです。

スポーツ・音楽はカッコイイけど、勉強はカッコワリー

ガリレオ

そうなんですね。
また一芸に秀でていることを条件にするAO入試やらスポーツ推薦やらがありますしね。

体育大学がスポーツ推薦ならまだ理解も出来ますが、普通の大学が何だかしょうむない特技があるというだけで、それとは何の関係も無い学部に入れちゃうんですね。

でもね、最近に英語の家庭教師さんから聞いたのですが、教え子さんの一人が、「AO入試で入学した子は、絶対にAO入試で入ってきたことは口にしない」そうですよ。

どうやら、「AO入試で入った」なんて、随分と肩身が狭いことになってきたみたいですね。

そりゃぁ、そうでしょ!「AO入試で入った」先輩たちは、結局、こんな低レベルになった大学でさえ着いていけない実績を作ってくださったのですから。

まぁ、極端に言えば、いつ頃からか不良である方がカッコよかったり、実は良い人間だったりするドラマなども流行っていますから、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれません。

真面目に勉強する姿なんてダサくて様にならない。
願わくば、スポーツや音楽で名前を上げた方がカッコイイ。
あるいは、スポーツにおいてすら、真面目に鍛錬する姿だけではドラマにはならない。

そういう風潮になってしまっているんですよね。
『君たちも夢をあきらめずに追いかければ僕のように一流選手になれるよ』

それはそれで、教訓的な意味合いもある実に涙もののストーリーで結構なのですが、ここでは違う視点で読み進めてください。

二宮金次郎なんてのはもちろんのこと、「巨人の星」ですらもう時代にはそぐわない。
武士的エートスの世界なんてものは表面上は過去の遺物になってしまっている。
(僕は、決して武士的エートスを勧めているわけではありませんよ。)

しかし、現実はどうかというと、野球のイチロー選手や、フィギアスケートの羽生結弦選手にしたって、不断の努力をしているわけで、そこのところはクローズアップされても「やっぱりな」という程度の納得でしか届かない。

それで、「カッコいいけど、自分には出来ないし」の意識はあって、部活ばっかりに頑張っている子を見て「すごいな!」「カッコイイな!」とは思うばかりで、勉強を頑張っている子を見ても軽蔑するだけ。

野球だかサッカーだかゴルフをやってる方が、トップの実力に到達すればですけれども、有名になれるしお金も儲かる。
普通に立派な社会人になるよりはるかに難しいのに、そういう表層的な部分だけが一人歩きしている。

それで、自分がそうはなれないと悟ると、その対極として、そうなれなくとも世の中賢く立ち回ったらお得に暮らせるじゃないかという世の中の仕組みが見え見えですから、何も、嫌な勉強で苦労などせずともいくらでも生きていけるじゃないかとなってしまうのも頷ける話です。

別にニートでもフリーターでも、幸せに暮らせればそれでいいじゃないかみたいな甘~い雰囲気が極めて強いと感じるわけです。

社会的な雇用の態様が変化してきていることが影響していることも重々承知はしている前提で、心の問題として話を進めていきますことをご了承ください。

僕は、ニートやフリーターというそんな表面的なことを危惧しているわけではありませんし、当然、スポーツ自体を否定しているわけでもありません。

自分の体や心を鍛える手段としてスポーツは有効なものですが、それ自体を目的とするものではありません。

かと言って、勉強してそれなりの社会的地位を掴んだ人やモーレツ企業戦士が偉いのかというと、微塵もそんなことは思いません。

むしろ、自分の仕事の能力を誇らしげに語り、フリーターに尤もらしい説教を垂れるような御仁も好きではありません。

でも、果たしてそれでいいのでしょうか?

人は氷ばかり掴もうとして、氷どころか水の存在さえ忘れた

もし、物質的な話をするなら、私たちの生命を支えてくれているのは一体誰なのでしょうか?
スポーツ選手が私たちの生命を支えてくれているでしょうか?
歌手やタレントが生命にとって無くてはならないものでしょうか?

そんなものは無くても人類は生きていけますが、これがなければ人類自体の存続が出来ない営みがありますよね。

私たちの生活を支えてくれているものは何なのでしょうか?
これは、大災害が起こったときに分かります。
不便を感じるもの全てが私たちの生活を影ながら支えてくれていたことが身に沁みて分かります。

そして、復旧するために全ての食料や技術や医療の英知が投入されていきます。

復旧されて一件落着となって初めて、私たちはその上に築かれている「より快適さ」というものを手に取り戻すことができるだけです。

その部分を評価しないことは、組み体操のピラミッドにおける頂点の役割を、その土台の存在なしにただ礼賛しスポットを当てるのと同じことになります。

スポーツや音楽がなくなっても世界は全然パニックにはなりませんよね。
第一、たとえばプロ野球なら、日本人の3人に1人はファンだと言われていますが、僕にはにわかには信じられないのです。
30人に1人の間違いではないかと感じたりします。

かく言う僕も、高校時代はラジオの野球中継をつけながら、寝転んで受験勉強をしていた体たらくでした。
まぁ、結果が気になるということもあったのでしょうが、あまりにシーンとしているのも淋しかったのかもしれません。
夏休みや春休みの高校野球はしっかり見ていましたし、土日にはプロ野球もテレビで結構見ていました。

そんな若かりし頃でも、少なくとも高校生以降は僕にとっては、熱烈であると言っても、とどのつまり単なる受験勉強のBGM程度のことでしたから、点けてはいても、ほとんど聞いているということはありません。
一段落したしたときに、ふっと聞こえてくる。そんな感じでした。

こう見てくると、ともかくも、野球などのスポーツはごく一部の人の娯楽以上の何ものでもないですし、たとえ、プレーする側が血を吐くような努力をしていたとしても、所詮、社会的な価値は娯楽という以外の何ものでもないでしょう。

自分がプレーする娯楽というものは実に深く楽しいものですが、ただ見て楽しむという娯楽は要するに息抜きの範囲のものです。
なのに、勉強もしない、スポーツもしない者にとっての息抜きとは、一体、何からの息抜きなのでしょうか?

企業が社会的な貢献という美名のもとに、PRを兼ねてプロスポーツを庇護しているというレベル以上でも以下でもないでしょう。
これを職業にしてしまうのは、近代特有の仕組みに他なりません。
寄生することを奨励する節度のない仕組みだと僕は思っています。

ともに同じ年代の故大宅壮一氏や故亀井勝一郎氏が、奇しくも同じことを言われています。
「スポーツはアヘンである」と・・・。

この辺りは、僕の機械工学科の後輩に当たる元自動車エンジニアで環境アナリストの石田靖彦氏もブログで「見るスポーツの不要性」を書いておられますし、論文引用数では世界でNo.1と言われるMITのあのノーム・チョムスキー博士も書いておられます。

毛利衛さんの言葉にも、そういう含みを感じることができますね。

スポーツよりもアヘンとなるものが生まれた時代

今、野球の視聴率が大幅に落ちてきているのは、そのアヘンが野球からもっと様々なものへ、いや、さらに低俗なものへと多様化・分散化してきているだけなんだという事実を反映しているに過ぎません。

子供達の学力低下については、学力の極端な分極化という現象として僕は捉えています。
しっかり勉強している子は、間違いなく健在なのだけれども、その後に続こうとする子たちが質的に空洞化してしまった。

富士山が噴火して、勉強しない側にどんどん溶岩が流れ込んでいるような分布・・・そんな感じではないかと考えるのです。
世界に共通する傾向とはいえ、主体性に乏しい民族なのか、日本と韓国はダントツでその先陣を切るような印象があります。

ひとえに、マスメディアやITやスマホ・ゲーム産業の影響で精神が骨抜きにされてしまった結果でしょう。
折りしも、センター試験が学力に応じて難易度別に2種類に分割されるという発表がなされました。

僕なりに直感的に感じたことを書くと、何も勉強したくないのならばそんなことをしてまで大学に入学していただく必要性がどこにあるのか?となります。

平均点が60点を想定された問題なら、60点以下であれば、どこの大学にも行けないと太鼓判を押すように引導を渡せば済むことです。

やさしい問題を作って、50点の人にでも気持ちよく自信を持って進学してもらおうというサービス精神なのでしょうか?
だとすれば、なんと愚かなことでしょうか!

まぁ、ここではそんなことを論じる趣旨で書いたのではないので、機会があれば書くこととします。

僕が言いたいのは、成績の良し悪しではなく、「まじめに勉強する」という行為自体に含まれる本質を骨抜きにしては、公共性云々という以前に、自分が自分として生きる人生とは程遠い人生を送ることに繋がるだろう人間の存在基盤が揺らぐのではないかということなんです。

おそらく、スポーツの位置づけに関しては反感を持たれる方は多かろうかと思います。

しかし、諸君や社会が将来とんでもない状況に遭遇した時、本当に頼れるのは、「ダサイ」とバカにしていた真面目に勉強を積み重ねていた人しかありません。
スポーツしかしていなかった御仁は諸君や社会にとって何の頼りにもならないことだけは確かですよ。

真面目が敗北する心地よい時代

ここまでは2011年にアップした記事なのですが、2017年の今、少し追記しておくという意味で、内田樹氏と養老猛氏のスペシャル対談の中で、「自分はこれでいいんだ」と開き直って、「成績の低い自分が好き」と自己肯定してしまう生徒集団、成績が低いことに達成感を感じる生徒集団が登場してきたとお二人が語られていることを申し上げておきます。

僕は、これらははっきりと現代文化の風潮から、特に精神が確立されていない年齢からスマホを好き放題に使える環境から自然に発生して来たと考えています。

要するに、

  • いくら真面目に頑張ったって損するだけじゃない。
  • でも、世間は頑張らなくても、「世界でたった一つの花だよ!」「そこで咲けばいいんだよ!」「君は君でいいんだよ!」って応援してくれる!

守銭奴たちが企んだ心地よいストーリーの中にスッポリと嵌り込んでしまっているのではないでしょうか?