数学を選択した人の年収は高い!?

このコーナは、【※※※※※】の代表から依頼を受けて、他サイトでガリレオが執筆することになっちゃいました執筆がベースになっています。

結論から先に言っちゃいますと、「この命題は真」ということになりそうですよ。

現代文明は、物理・化学及びこれらの表現上の土台となる数学無しに成り立つものではないにもかかわらず、数学や自然科学を選択科目として学ばなくても済むような制度が進行してきていることが多いにクローズアップされ、憂慮される問題なのではないかと考えます。

これは、私が技術屋の傍らFAX塾を企画して教えていた頃、立花隆氏が東大の講義で、物理を履修していない文系学生の多さに驚いて、「この現代社会において、物理の基本原則さえ知らないことはとても恥ずかしいことであり、大学で学ぶ資格はない」と一喝したエピソードがあります。

ピアノと保育・教育の道を身に着けた我が家内をして、結婚後ではありますが「物理も勉強していない男は結婚相手として考えられないでしょ」と言っておりました。

2019年、こともあろうに日経ビジネスから、こんな記事まで…。

プロローグ~Z会よりのコメント

数学を選択した人の年収は高い!?

2012年4月、大学受験時に数学を選択した人の年収の方が選択しなかった人よりも大幅に多いという解説をテレビで目にしました。

これは、本記事を執筆した2009年以前から公表されている統計結果ですが、打算で数学を選択するという気持ちが私は嫌いですから、敢えて記事には書いていませんでした。

アップした後の本ページは、平均閲覧時間が10分以上と、大変熱心に閲覧いただいております。

2009年12月16日、私が担当する他サイトのブログの方で、Z会 寺西様よりコメントいただきました。
実際に「学生の数学力は明らかに年々落ちてきている」とのコメントでした。

残念ながら日本の学生の数学力は明らかに落ちてきていますね。

数学の編集担当をしていた7年間でも、どんどん落ちてきましたから。


こんにちは、Z会に言及していただきありがとうございます。

しかもその記事、僕かもしれません(苦笑)

数学の選択の可否自体ではなく、どうしてもその裏にある「いやなものから逃げる」という点や、「根気よく論理を積み重ねる能力に劣る」という点を本質として抽出してしまいますから・・・。

まさにここを企業担当者は見抜くんですよね。

「そんなの不公平だ~」と学生の声が聞こえてきそうですが、面接は「企業が欲しい人材を採る」ものですから、不公平でもなんでもないんですよね。

#と気づいている学生さんは、すでに「逃げる」をしないわけですけど。


最初に年収のことでの結論を言っちゃいますと、「大学受験時に数学を選択した人の年収の方が高い」という傾向は正しい分析です。

また、「理系の方が文系より平均年収が高い」というデータも正しいでしょう。

但し、メガバンクや一流の損保や証券などに一流大学卒で入社した場合などには、この関係は成り立たず、むしろ大きな逆転現象となっていることは日常感覚で分かることでしょう。

この辺りから、時代がおかしくなってきたのかもしれませんね。

日本経済を支えてきた一流製造企業に就職しても、彼らの高給ぶりに到底及ばないですから、バカバカしくてやってられねぇという声はあちこちの飲み会で聞かれました。

すなわち、一部の業界、主に金融業界に就職できた場合には、一流大学卒でなくとも、一流大卒の理系などよりもはるかに収入は高いという例外は発生していました。

それは、私の口からは言うのも憚られるような酷いものですが、それが現実です。

金融業界は窮地に堕ちった時期に、政府から支援を受け、そのことで世間から大いにバッシングを受け、少しは改善されたようにも見受けられますが、それでも世間的には恵まれた地位にあることには変わりないようです。

しかしこのような一流の金融関連企業も、大きな声では言えませんが、昔から国立大学出身の方を優遇していましたし、私立大学は早慶だけがその仲間に入れてもらえる現実を聞きましたけれど、今もそうでしょう。

京大経済からメガバンクに就職した友人から現実を聞き及びましたので間違いないでしょう。

メガバンク内のヒエラルヒー意識は、私の口からは言うのも憚られるような信じられないものでした。

数学が選択になったような現代においては、なおさら、その傾向は公式な見解になっていくかもしれませんし、誰もが入りたいような企業であればなおさらそこで差別化をしていくと考えられます。

それは、Z会の方のコメントにもあるように、数学を選択しない人には、「嫌なことから逃げる」「理論的なことが嫌い」「根気がない」といった評価をしておけばほぼ間違いがないと企業側は見ているからです。

さて、受験科目として数学不要(選択科目)にしている私立大も多いですね。
受験生のニーズに応えたものとか・・・。

少子化に加え、大学数の激増 → 大学全入時代という状況から、経営的に、受験生のご機嫌を取らなければならないという事情が大きく横たわっているということかもしれません。

また、世の中全体が虚業化する中で、極端に言えば、「論理力」より「がめつさ力」であるという風潮が追い風となっている背景も無視できず拍車をかけているような気もします。

その一方、様々な論議もある中、社会人の方では、「もっと勉強しておけばよかった科目」として数学を挙げておられる方の割合は非常に高いように見受けられました。

「数学なんて生きる上で必要ないと思っていたけれども、仕事する上で、筋道を立てて黙々と問題を解決してゆくというプロセスがまさに数学だったんだ」と感じておられる方もお見受けしました。

まぁ、生活する上で最低限必要なものと言えば、言葉や四則演算や日本や生活に関する常識とモラルぐらいしか実際にはありません。

そう考えれば、「数学なんて必要ない」は、「歴史なんて必要ない」、「地理なんて必要ない」と同じ位置にあると思うのですが・・・。
もっと言えば、常識以上の学問なんて必要ないということになります。

もし、必要とか必要でないとかの基準で考えるなら、数学だけが標的にされるものではなく、中学校以上の勉強全体が不必要ということになってもおかしくはないでしょう。

私自身の意見を述べれば、正直な話、数学を外す発想自体が愚考だと考えます。

逆に、理系から社会科を外すというのも同様に愚考と考えるわけです。
理系バカと同じように文系バカを生産することも極めて好ましいことではないと考えているからです。

私自身は国立だからかもしれませんし、時代が違ったからかもしれませんが、多くの文系の友も普通に数学も出来ていました。

短大の教育学科卒の私の妻でさえ、「数学も物理もチンプンカンプンやったけど、アホなりに一生懸命勉強したよ」「数学と物理はすべての子が絶対に勉強しないとあかん科目やろ」と仰ってます。

同様に、社会科学にも興味を示す理系の学生は、確かに数は少なかったかもしれませんが、歴然として存在しました。
そして、彼らを人間としての幅が違うと感じたのは私だけでしょうか?

それに、「性格の異なった主要な勉強の一つを外してしまうのは如何なものか?」と疑問に思うと同時に、選択制にしてしまうとどうしてもフェアー性という面での問題も付きまとってくると思うのです。

ここで、真面目な説教には興味のない方も居られるでしょうから、そんな方の為に、詳しくは述べませんが下世話なメリットもあるということだけ少し示唆しておきましょう。

数学ができる力を持っているということは、諸君がもし生活に困った時に身を助けてくれるということです。

それも、別に最高級の数学力を要求されるわけではありません。
真面目に理解しようとする勉強さえしていれば身につく数学力で十分です。

人を煽ったり騙して儲けるような商売人は頭がいいのではなく、頭が悪いからモラルを無くすことで収入を得ているように見えます。

それも、どこかのアホな経営コンサルの指導がないと自力ではその能力すらないようです。

しかし、そんなあこぎな営みをせずとも、現代社会は単に数学力があるだけで、収入が得られるような仕組みも出来上がっています。

立派な仕事かどうかは別問題として、それが、どういう分野なのかも論理的に考えればすぐに分かるのではないでしょうか?

広く学ぶことは感謝の心を育てます

私たちは何もかも全てを深く学ぶということは出来ません。
最低限必要な母国語ですら、知らない言葉を山ほど残して一生を終えていくものです。
一つのことだけを極めようとすると、それだけで一生を費やしてしまうことになります。

ですから、仕事や必要性や自分の要求に応じて、人にはそれぞれ自分のテリトリーというものを徐々に形成していきます。

文系には文系のテリトリーが、理系には理系のテリトリーが自然に形成されていきます。
まぁ、専門分化ということになるでしょうが・・。

その一方、「広く学ぶ」ということにもそれなりの意義と意味があるはずです。
と言うか、あります。

まず「広く学ぶ」ということの重要性は、一つには人間が社会的生き物であるという点から考えなければならないと思うのです。

それは、自分以外の他のところで、誰かが汗を流して社会を支えているというイマジネーションが非常に大切なことだと思うからです。

私たちは、たいていが「自分ひとりが偉い」とか「自分のテリトリーこそが社会を支えている」かのような錯覚に陥りがちです。

しかし、例えば、多くの人に嫌われる「数学」や「物理」を誰もが勉強してこなかったとすれば、文化生活と呼ばれる私たちの現在の生活は、とうていあり得なかったことでしょう。

そして、この近代的な生活そのものが、私たちの大半にとっては「心地よさ」あるいは「快適さ」という大きな恩恵を与えているという事実があります。

もっとも、これらの「快適さ」は、受身的に受け入れるばかりでは、決して幸福ばかりに繋がるものではなく、大きなどんでん返しを用意しているものまであります。

ですから、恩恵だけではなく、近代的な生活自体がもたらす弊害という部分にも目を向けていかねばならないことは当然ですが、それもまた違った側面からの科学ということになるのでしょう。

あらゆる意味で、嫌なことからは逃げ回るという姿勢からは、自分のテリトリーとは違った世界に対する想像力を鈍感にしてしまい、ひいては感謝という念を喪失してしまうことに繋がりかねません。

日本人が劣化したと言われる所以には、このような状況が根源として影響しているのでしょう。

「広く学ぶ」ということの意味の一つは、こういうところにあると私は考えています。
そして「学ぶ」ということ自体に関して言えば、生きる意義そのものが「学ぶ」ということではないかと思うわけです。

仕事に就く上で必要だったにしろ、ただ単に「学ぶ」ことが面白く感じられるからにせよ、そこには、一人の人間として向上していくという共通のベクトルがあります。

必要であるとか必要でないとか以前に、向上する気持ちを持ち合わせれば自然に勉強はするものです。
なにも学校で習う勉強だけが「学び」ではありません。

「もっと数学を勉強しておけばよかった」と思われた方は、上のように実際に仕事をする上で感じられたのかもしれませんし、仕事には必要な能力とも思えないけれども、人生を味わう中で純粋にもう一度やり直したいと思われたのかもしれません。

何の得にもならないことでも、何かを知る、何かが分かるということ自体がそれぞれの人生に幅を持たせ、可能性を拡げ、充実感をも与えてくれるものではないでしょうか?

昔の純文学でも、その中には科学の話が出てきたり、数学の話が出てきたりします。
文豪や作家と言えども、専門外の勉強にも興味があったことは明々白々です。

筋道を立てて問題を解決していく能力

ここで数学に話を戻しますと、数学は、確かに「筋道を立てて問題を解決していく能力」という力を育んでくれる格好の素材でしょう。
論議の発端となったジャーナリスト千野信浩さんは下記のように書かれていました。

話を聞いたある私立大の歴史の先生は、「論文を見れば数学をやってきた学生かそうでないか、一発で分かる」と話していました。
数学を勉強してきた学生は、論理的にものごとを積み上げていく習慣がついている、という訳です。

企業側に根強い国公立大人気には、文科系でも数学をやってきたか、論理的にものごとを考える素地があるか、理科系でも歴史や国語の素養があるのかが明らかに影響しています。」


この言葉からは、明らかにバランスがとれて且つ優秀な人材を企業は欲している様が伺えます。
少なくとも実業を営んでいる企業であれば、製造業であれサービス業であれ当然の要望でしょう。

松平先生も、自分の出された電子ブックをアフィリエイトしている人々のページを見られて、「私の生徒だったらそれこそ居残りで勉強させたいくらい国語力がなんともいいがたい方もおられます。」と呆れられていたことを思い出しました。

加えて、息子が就活をしていた時期に、「今日日は親にエントリーシートを書いてもらうらしい」なることも耳にして卒倒しそうになりましたが、さもありなんの国語力なんでしょうね。

昨今のネットビジネスでは特に、ともかく実体は貧相で空虚な商品なりサービスを売りさえすればよいといった類が多数を占めますから、そんな会社では、論理力など一切不要で「如何に善人ぶった悪知恵」を思いつく力こそが最優先されるのかもしれません。

そういった世界では、稚拙でセンセーショナルな言葉で消費者を喜ばせる術を会得して、これに長けてしまえば簡単に出世したり成功できますから、ネット社会にあっては、それが一般的なのだとすら錯覚してしまいそうです。

しかし、社会的に責任ある企業では、面子にかけてそういうことは出来ませんから、口八丁手八丁の人材より(科学的)論理性が重んじられるのは当然と言えば当然です。

だからこそ、Z会の方がブログで仰っていたように、いわゆる「学歴優遇」とは別に、「数学選択優遇」は就職の際に確かに存在するという現実が存在するのです。

「数学不要で有名な大学じゃん」と思われた瞬間、「すでにその希望者に備わっている能力」としては1つのマイナスポイントとなっていることが現実だということが書かれていました。

私が企業の人事担当者であれば、当然同じ視点で選抜していくであろうことは確実です。
数学の選択の可否自体ではなく、どうしてもその裏にある「いやなものから逃げる」という点や、「根気よく論理を積み重ねる能力に劣る」という点を本質として抽出してしまいますから・・・。

何より、仕事でも論理的に自分の取るべき行動指針を導き出せないのでは、雇っておく価値がありません。

この後、「AO入試・自己推薦入試の合格者」をも含めてのお話になりますが、普通にきちっとした会社(一般的な表現であることは分かっていますm(__)m)であれば、

  • 先ずは国公立出身者を第一選択肢でピックアップします。
    一般的には、偏差値とは関係なく地方国公立の方が早慶よりもプライオリティは高いでしょう。
  • 一言で言えば、国公立は当たり外れが小さく、悪くても平均的で無難だし、何よりも人間としての信用度が高いという意識が働いていると思われます。
  • 次には、中堅企業ですら、産業界ですから、できれば早・慶(関西なら同志社・関学)の学生をピックアップします。
  • 私自身が人事担当者なら、文系事務職ならば早慶レベルですら、面接で人物と能力を確かめます。
    会社の業種にもよりますが、私の高校時代の友人は定期テストで物理0点(同じく友人が初めて0点を見たと言っていました)ですが、立派に早稲田・政経卒です。
    まぁ、大手の証券会社に就職して、友人たちから「ヤクザな会社に就職して…」と陰口を叩かれていましたけれど…。
  • それはそれとして、随分前からですが、その背景は、もはや早・慶レベルですら、所謂「いい会社」にはなかなか就職できないという事情があります。
  • ですから、AO入試や自己推薦入試で合格した生徒は数学非選択の一般入試で合格した学生よりも低く見られるのは、ある意味当然のことと言えます。
  • ごく一部に優秀な生徒がいることは私も知っておりますが、もし、本当に能力があるのに、面倒くさいからといって「数学非選択」や「AO入試・自己推薦入試」を選ばれたとするならば、就職の際、憧れた会社であれば、たいてい莫大な数の中から選抜するシステムにおいて、最初は機械的な選別になりますから、本当の姿を見てもらう前にふるいにかけられてしまう不幸は覚悟しなければなりません。

まぁ、ある意味、ここを見ておれば間違いがなく最適なリクルートになっているということです。

いかにして問題をとくか

もし、数学が苦手だけれども、何とか普通のレベルで理解する程度には向上したいと考えておられるようでしたら、G.ポリアの「いかにして問題を解くか」をざっと読まれてみては如何でしょうか?

私たちの学生時代に話題になった書だったと記憶していますが、論理的である人にとっては、ある意味、無意識に自然に行っている所作がまとめられている書ということができると思います。

自分の普段の勉強する際に、ポリアの問いを自分に課してみることで、自分の課題が見えてくることと思います。

「式さえ分れば解けるのになぁ」の本末転倒

ここから書くお話は、別ページでまとめる予定にしていますが、おそらく小学生や中学生時代に「式さえ分れば解けるのになぁ」と呟かれた方は多いのではないでしょうか?

実は、この呟きこそ、数学の成績上位者と下位者の認知で最も差異が出る認知である事が論文で発表されています。

なぜなら、当然のことながら式をチョイスしたり導き出すことが「勉強する」ということそのものだということです。

もうお分かりですよね。
この言葉は「式さえ暗記していれば解けるのになぁ」という呟きに置き換えても通じることを。

「数学は暗記だ」という言葉をそのまま受け取ったが故の大きな誤解が潜んでいることを感じます。

「分る」が「暗記する」にすり替わってしまっているのです。
そして、いつしか、論理力が骨抜きにされて大人になってしまう。
これが、数学を非選択するということの本質とも言えるのですね。

小学生時代に秀才と呼ばれていたのに、年齢を重ねるごとに成績を落としていく子がたくさんいますが、そのあたりの根っこも、ここに潜んでいます。

さて、最後に私が最も伝えたいことで締めくくりたいと思います。

「学ぶ」ということは、自分以外の他の分野の営みに対する想像力を育むという側面と、自らの営みや人生を向上させるための栄養素となっているという側面で見つめなければならないとに私は考えています。

即物的な必要性から論じてしまうこと自体が、現代社会における貧しさの象徴であるように思えてなりません。
即物的にすらメリットがあることも見抜けないことは不幸中の幸いかもしれませんが…。

AO入試や自己推薦での合格者は?

ことのついでに、AO入試や自己推薦で合格した方の将来について記しておきたいと思います。

結論から言えば、実業を営んでいる企業であれば、基本的には、数学非選択の応募者以下の扱いを受けるでしょうね。

本音の尺度では、ルックス(女性であれば、可愛さ・綺麗さ)やイケイケドンドン性・「がめつさ力」だけを要望している業界以外はということになるでしょうが。

知り合いの家庭教師さんは、教え子さんから「AO入試で合格してきた人は、そのことを絶対に隠す。」と聞かされたそうです。

要するに、世間で叩かれているせいもあるでしょうが、現実的には自分自身で肩身が狭いと後ろめたい思いを持っているということになりますかね。

しかし、私大の場合は、今や半数が、このAO入試や自己推薦による合格者のようですから、近いうちには、マジョリティとして威張れる日が来るかもしれません。

但し、卒業後に出ていく社会は、真っ当な会社であればあるほど、数学と同じように、ここでフィルターにかけられることは決してなくなることはないと思いますよ。

現実に、入学の形態をエントリーシートや面接で聞かれる会社もあるようですし、私の友人たちからの情報によりましても、ほぼ100%、実際には何の取柄もない(むしろ学力も人間力も劣る)ケースがほとんどだから、人事では二度と採用しないという結論が最大公約数のように見受けられました。

東進の人気講師で、近年はタレントになったかと思える林先生は「私立大学卒で頭のいいやつを1人もみたことがない」と仰っていましたが、それは文系卒の偏見と言う気がしますね。

しかし、文系で頭がいいと思った人は、私自身でも我が友を含めても数えるほどしかない(文系の場合は国公立でも数少ないですが、共通して自然科学や数学の素養も豊か)ことは、正直な話、間違ってはいないと思う印象はあります。

それに加えて、街中の医者を見ていても、頭がいいと思う医師は、県立病院クラスですら滅多にありませんけれど…。

その一方で、私たちから見ても、理系で頭がいいと思った人は数え切れません(上を見ればキリがないほどたくさんいます)し、産業界では、私立大学どころか工業高校卒でも実務的に優秀な方々とはたくさんお会いしました。

最後に、悪い言い方と承知で書きますが、べべの成績、物理0点でも慶應経済や早稲田政経に御進学あそばしていることも知っています。

だからこそ、堅気の業務をしている企業は事務系職員を雇うときの尺度を学歴に求めるしかなく、国公立志向にならざるを得ないことは、誰にも咎められるものではなく合理的だと思います。

ただ、まぁ広告代理店や放送局やメディア関連など華美と虚飾を生業とするような会社で特に専門性が必要であるわけでもなければ、大手でも裏の尺度に適えば入社できるかもしれませんがね。

挑戦するあなたへ贈る応援の詩

My Life, My Road ~サトミの闘い~

大学受験突破を目指す君にも、お子さんの明るい未来を願う保護者さんにも、是非見ていただきたいドラマがあります。(約33分のドラマ:時間が経つのを忘れます)

是非ご覧ください、いや、絶対に観てほしいと願います。

なんと!SUBARU(旧富士重工業)が自社サイト用に制作したドラマです。(車は、父が娘を迎えに行くシーンと***へドライブするシーンのみです)

サブタイトル「受験・友情・親子の絆 | 人は闘うからこそ、道に迷う。挑戦するあなたへ贈る応援の詩」

私も、若い頃からSUBARUが好きで、長年「レオーネ」に乗っていました。

そんなことはどうでもいいことの上に、自分の口で言うのもはばかられますが、サトミのお父さんの姿そのものが、私の指導方針でもあり、子育ての姿勢でもあるということをもって、なんとしてでも自分の未来を、お子さんの未来を「活き活きした」ものにするためにも観ていただきたいという思いがあります。

ルイ・アラゴンの「教えるとは未来を共に語ること」を彷彿とさせるドラマです。

ただ、受験に関しては、ひたすら頑張るだけで報われるほど甘いものではありません。
的を射た勉強の仕方をしない限りは、良い結果を生み出すことは難しいことは言うまでもありませんが、それ以上に、せっかく膨らんだ夢をむざむざ萎ませていく元凶になってしまうことに怖さがあります。

なのに、そこのところを教えてくれる人や塾はほとんどいません。(指導者自身が分かっていない)

真っ当な書籍では、具体的なヒントを得られるものも少なからずありますが、一般論の域を出ません。

だからこそ、「帝都大学へのビジョン」は、それ以上に具体的に実践に直結した書として存在価値を認められてきたと言えるのかもしれません。

理屈抜きに意を決したら、

学習サイクルとタイミングを心得た正しい勉強をするだけで

成績は飛躍的にアップすることは保証してもいいでしょう。