川端康成がノーベル文学賞受賞者であることは君もご存知のことかと思います。

その受賞作は「雪国」や「古都」など複数の著作であることもご存知でしょう。

その川端康成が受賞記念講演で講演された内容が書かれた本があります。

「美しい日本の私」

どこかの国の首相が「美しい国」というときの「美しい」とは次元の甚だしく異なるものですが、この書がまだ新書として未だに販売されていることは驚きの限りでした。

この書のAmazonレビューに現代文の模範になるような素晴らしい投稿がありましたので最初にご紹介しておきたいと思います。

受験生である君にここまでの深い文章を望むつもりもありませんが、少なくともこのレベルの文章が理解できることを目指して、このぐらいの文章を書けるようになりたいと思う心をもって、現代文や社会をはじめとする様々な勉強に取り組んで頂けたらという思いがあります。

そしてもう一つ、この書で引用されている禅の言葉とその同時通訳を眺め、一つの国の精神文化を他の国の人々に伝えることの難しさを取り上げてみたいと思います。

さて、以下に引用したレビューにおいてレビューアが冒頭に書かれているように、実は私も高校生の時にこの講演内容に出会うまで、読みもしないで、川端康成などは彼の講演にも登場する芥川や太宰とは彼岸にあるノホホンとした無害無益のつまらない暇人文学だという思いこみしか持っていませんでした。

川端康成は日本的な美を表現した小説家であることには間違いないのだが、もっとも思想性のある日本の文学者であるということは、一般的に知られていないような気がする。

かと言って、それでも川端康成を読みたいと思ったほどのわけではなく、ただ「根拠のない思いこみで誤解をしてはいけない」という大切なことを学んだというだけに止まっています。

川端文学を流れているであろう禅的な根に共感を覚えたとはいえ、今でも、川端康成自体の本は1冊も読んだことがありません。

というか、根は同じ臭いを感じても、何かが違うというか、のめり込もうというまでの気持ちにはならなかったのです。

それは、文学自体にそれほど興味がないからかもしれませんし、いや、むしろ文学の力を信じていないからかもしれません。

いくらでもやることがあるわけですから、その中で川端を読もうという選択肢までは処理できなかったことは、もう如何ともしがたいのですね。

——前略——

この講演で述べられていることは、いわば、川端康成の文学者としての明確な美学の表明である。
つまり彼が目指した小説の世界の「姿」である。

ここでの彼の主張は、道元や明恵上人、良寛、一休禅師をはじめとする禅仏教の世界観であり、西行や永福門院らの新古今和歌集で表現された「幽玄」の思想である。

川端はこの講演において、西欧とは全く異なる日本独自の伝統的世界観を説明し、いわば西欧にはなかった日本人の自然観や現世の捉え方を紹介する。

ここでの講演内容はこの意味において非常に深みを帯びており、平安期からの日本の芸術において、その背景に存在する独自の死生観の意義を示しているのである。

いわばこの講演によって、川端は西欧中心の文化的世界に対して、日本の芸術の特筆すべき本質的な全体像を示してくれたのであり、その日本文化のあり方こそが、その後の未来世界におけるひとつの大きな哲学的キーワードを提供し、芸術における死生観および美学的方向性を指し示していると言える。

20世紀という時代において、西洋文明はその限界を露呈し、大きな曲がり角に差し掛かっていた。
二項対立の無意味さを説くインドの思想や日本の仏教思想は、世界にも注目され始めたその時に、ノーベル文学賞を受賞した東洋の文学者から放たれたこの講演の意味は、あまりにも大きいものである。

——後略——

では、本書の一部だけピックアップしてみます。

逢仏殺仏 逢祖殺祖

これはよく知られた禅語ですが、他力本願と自力本願とに佛教の宗派を分けると、もちろん自力の禅宗にはこのように激しくきびしい言葉もあるわけです。

他力本願の真宗の親鸞の「善人なほもて往生す。いわんや悪人をや。」も一休の「仏界」「魔界」とかよう心もありますが、行きちがう心もあります。

その親鸞も「弟子一人持たず候」と言っています。

「祖に逢へば祖を殺し」、「弟子一人持たず」は、また芸術の厳烈な運命でありましょう。

【問題】

この文章を読めば、「逢仏殺仏 逢祖殺祖」に返り点が打てるはずですから、まず返り点打ってみて下さい。
そして、この言葉の意味を推慮し簡潔にまとめてみて下さい。

この禅語は「臨済録」に記された言葉で、「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し,父母に逢うては父母を殺し,親眷に逢うては親眷を殺して,始めて解脱を得ん。」

中国の「無門関」においては、「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭において大自在を得、六道四生の中に向って遊戲三昧ならん。」という言葉で語られるものです。

この講演は、当然ながら同時通訳で聴衆に伝えられました。
日本文学研究者サイデンステッカーという方の同時通訳において、「逢仏殺仏 逢祖殺祖」は次のように英訳されました。

“If you meet a Buddha, kill him. If you meet a patriarch of the law, kill him.”

さて、この英語を世界に発信したとして、どれほどの人々にその真意が伝わるのでしょうか?

日本の「禅」なる宗派は、さながら暗黒マフィアのような組織だと思われてしまうかもしれませんね。

もともと、禅は不立文字を根本に据える思想ですから、ロゴスが1対1に対応した西洋の言葉で果たしてその概念が伝わるのかどうかと考えると、なかなか難しいのではないかと思われます。

私たち日本人は、たとえ禅に関して無知であろうとも、どこかしらで一休さんの頓智の話は耳にしたことがありますし、寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」といった類の言葉にもよく出会いますから、デカルト的な悟性ではなく悟性を越えたところに直感で捉える座標軸を誰もが知らず知らずのうちに持ち合わせているのではないかと思われます。

未だに1冊として著作も読まず、この講演での意外だった川端しか知らない私には、彼の禅的美学や哲学がどういった形で著作に裁ち入れられているかは語ることも出来ないのですが、レビューアが書いておられるように日本の文壇の文学的レベルがあまりにも低次元なものになってしまったのであれば、あるいは、ネット社会によって、言葉が著しく軽薄になった今、不立文字を背負う川端の美学とともに、他国言語でのこれらの伝達の可能性を考えてみられるのも、大学に入られた際には文学・言語学・外国語・社会学・歴史・芸術等多彩な分野における面白いテーマになるのではないでしょうか?

禅でも師に指導され、師と問答して啓発され、禅の古典を習学するのはもちろんですが、思索の主はあくまで自己、悟りは自分ひとりの力でひらかねばならないのです。

そして論理よりも直観です。他からの教えよりも、内にめざめる悟りです。
真理は「不立文字」であり「言外」にあります。

維摩居士の「黙如雷」まで極まりもしましょう

まさに、この箴言は、君が何かを学ぼうとする時のあるべき姿をも如実に表現しているのではないでしょうか?

常に主体的であれと…。

「祖に逢うては祖の脛をかじり」では、何事をも修めることは出来ないと…。

まぁ、脛をたくさんかじらせることで悦に入っている指導者も指導者なのですが、そういった指導者や上司の多いこと多いこと!