言葉のあや~国語の素養

下記は、国語学者であった故永野賢氏の『国語の素養』からの一部引用です。

引用文も含めて、本記事中のを(  )に適切な言葉を入れて完成させてください。

「山路を登りながら、かう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば(  )だ。兎角に人の世は住みにくい。」

(  )の『(  )』の書き出しであるが、ここには「知・情・( )」の三つを対句とした表現の技巧がある。

対句といえば、『(    )』の冒頭にもそれがある。

「月日は百代の過客にして行きかう( )もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老をむかふるものは、日々旅にして旅をすみかとす。」

(  )の俳論を弟子の服部土芳が筆録した『三冊子』には対句について説明したところに、「日本にはないが、漢にはその”あや”がある」という意味のことが述べてある。

「ことばのあや」というものは元来はこのように「対句」をふくめた、きわめて技巧的な修辞法をさすものであったと言ってよい。

さて、上記の「月日は百代の過客にして行きかう( )もまた旅人なり」は、(  )の詩の一節「天地ハ万物ノ逆旅(ゲキリョ)なり、光陰ハ百代ノ過客ナリ」を裁ち入れたもの、あるいは本歌取りの手法として使ったのかもしれないことを知っておかれるといいのではないでしょうか?

続けて、修辞的技巧は対句に限らないし、日本で発達しなかったわけでもないことを、次の詩を例に挙げて説明が続きます。

からまつの林を過ぎて
からまつをしみじみ見き
からまつはさびしかりけり
たびゆくはさびしかりけり

からまつの林を出でて
からまつの林に入りぬ
からまつの林に入りて
また細く道はつづけり

・・・

(    )の『落葉松(からまつ)』というあまりにも有名な詩ですね。

「からまつ」という同じ言葉を繰り返すことで、果てしなく続く落葉松の幽玄と果てしなく続きそうな自身の寂寥感が共鳴しているかのように伝わって来ますね。

永野賢氏は、これを「和語の響きを生かした表現技巧」としての「ことばのあや」の仲間に入れることが出来ると書いておられます。

合唱曲で有名な『落葉松(からまつ)』も同じように、「からまつ」という同じ言葉を繰り返すことと「わたしの ※※が濡れる」を繰り返す複合的な表現手法で、自然と人との寂寞感が浮き上げって来ますが、この作詞者には明らかに(  )に影響をうけたのではないかと思われます。

ところが、そういった。いわば「陰影の美しさ」を離れて、「巧みな言い回し」の意味に使われるようになると、「ことばのあや」も少々あやしいものとなる。

その例として、「作り話だと思うが」と断りを入れられた後、以下のようなお話を挙げています。

この話は、なぞなぞなどで知っている諸君もいるかもしれません。

昔、天文係の役人が「明日雨降り候天気には御座無く候」という天気予報を出した。

雨が降ったら、あれは「明日雨降り候。天気には御座無く候。」の意味なんだと言い、晴れたら、あれは「明日”雨降り候天気”には御座無く候。」の意味だったんだと弁明する。

どっちに転んでも責任を問われることはない、というのである。

こういうのを、私たちは「ことばのあや」だと言っている。

100%外れない天気予報を出すにはどうすればいい?というなぞなぞ問題にもなるというわけですね!

このように、読み手の解釈によって、切ることができたり、後置の語に意味連接させることができるのは、アルタイ語系の特徴なんてことをどこかで目にしたことがあるのですが、日本語の起源を探る上でも重要なことかもしれませんね。

もともと「あや」とは、さまざまな色彩や模様を言い表す語である。

つまり「ことばのあや」は、表現の美しさ・巧みさを目的とした修辞法であり、文章やことばの飾りなのであった。

それが次第に、言い逃れの技巧となり、弁解の(  )となり、ごまかしの(  )といった意味にずれてきたわけである。

私がコピーライターという存在を知ったのは、高校生の時だったのか大学生の時だったのかは忘れたのですが糸井重里氏でしたけれど、最初に驚いたのは、こんなことで飯が食えるなんて!ということでした。

しかるに、今の状況を見ると、ことばの軽さは当時の比ですらなくなってきたように感じられます。

是非、諸君には、この機会に「ことばのあや」や「韻を踏む」ということを静かに一から見つめ直してほしいと願う次第です。

本稿に関しては、答を記すなどという野暮なことは致しません。

とかくこの世は学びにくい | 成績を上げるために必須なこと

最初に、とある臨床医さんの言と学部は違いますが我が後輩(京大情報工学OB)が教育関係の論議で発言した言を併せてご紹介しておきましょう。

ところが、それら原因をいちいち正確に調べもせずに、バカのひとつ覚えのように、どこの※※※科医も、「※生検!※生検!※生検!」と、患者さんに頭ごなしにゴリ押しするのです。

いくら教科書や※※※学会で教わったことがないからと言って、臨床経験を積めば、おかしい?と思う筈です。

文献的な情報の受け売りばかりだけで、自分達の頭を使って考えることがなくなっているのが現状です。


たかが盲腸の診断すらできなくなっている医者が蔓延る世の中で、10人専門家がいれば8人はやぶだといっていいでしょう。
まして、ネット情報に至っては9人はやぶでしょう。

それぞれの周囲を見渡せば本当のプロといえる人はごく一握りだと誰もが知っているはずです。

その中で生活上の問題を切り抜けていくには、俗流社会学や俗流心理学・俗流分子生物学・俗流脳科学・俗流AIなんぞをこねくり回して遊ぶのでなく、知識、感性を自分の責任で磨いて対応するしかないですよね。

世間的には、お賢い人がなれると思われている医学の世界ですら、当事者や見る人が見れば、現実はこんなものです。

あなたの最寄りで、真に信頼できるお医者さんを探せれば、それは非常に幸運なことですが、まぁ十中八九、紋切り型の決まり文句で対処されるケースがほとんどですね。

「やぶでも係っているいることへの安心感」が大きいですから、多くの場合は特に問題はありません。

それ自体は何の落ち度もないように見えますが、ことと場合によっては大いに患者を不利益に導いてしまうケースは確実に生じますし、これを経験された方も多いのではないでしょうか?

ましてや、生命には関わらない教育の世界では、指導者がやぶである確率など、さらに高いことは目に見えています。

お子さんの成績が上がるための条件は、そもそも真面目にやる気持ちがない場合を除いては、

  • あなた(お子さん)が、適切で効率的な勉強の仕方の流儀を我がものとする
  • あなた(お子さん)が、それぞれの教科の実際の学習内容に関して、自分を心底より納得させる術を会得する

という2点を、自力あるいは第三者のサポートを得て確立するということ以外にはあり得ません。

ところが、そんなところは突いてくれないのが現実社会です。
準備された模範解答を恭しくご教示して、「俺のようになれるだろ?」というスタンスが大多数です。

準備出来ない環境で教えろと言われたら、どれだけの指導者が慌てふためくことでしょうか?

こういう状況では、8割方はいつまでたってもお子さんの学力など伸びるはずはありません。

どんな問題でも、ことによっては、他人をあてにすることほど実の無いことはないのは確かですから、「やぶでも安心できればそれでいい」という場合を除けば、自分の流儀を曲がりなりにも自力で確立すべく努めることを優先されるべきでしょう。

自分の軸さえ持てれば、たとえ環境に恵まれなかったとしても、浮草のようにフラフラと漂うことだけはありません。

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「帝都大学へのビジョン」は「バイブル」と頼られて10年。

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京都大学工学部OB2名と大阪大学大学院工学科OBの3名、しかも全員物理系ハードエンジニア出身(教師転身2名)で執筆していますから、商売人や学生上がりのような、実社会で何もできなかった無責任で底の浅い騙し専門の著者とは良心も実用性もレベルが違います。

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