本記事を読まれて、トムソーヤのペンキ塗りの逸話を思い出したという感想をいただきました。m(__)m

まさにその通りで、「トムソーヤ」の中にも、子どもをやる気にさせるヒントが潜んでいたということですね。

頭で考えても『やる気』は生まれて来ない

間違いだらけ?『やる気』を求めて三千里

今日は、以前に【やる気と集中力~学習性無気力~】で一般論を記載しました『やる気』というものについて、より端的に書き記しておきたいと考えます。

といいますのも、【帝都大学へのビジョン】では書き記していることではありますが、『やる気』に関するご相談やご質問がほとんどを占めるということもあります。

先に、結論として端的に一言で表しておきますと、

頭で考えても『やる気』は生まれて来ない。

『やる気』は脳から生まれて来るものではない。

『やる気』の母は脳に非ず。

「どうしたらやる気が出ますか?」という質問は、はるか昔から定番の質問のようです。

特に保護者さんからの質問・相談は絶えることがないようですが、人の話やお説教を聞いただけで一様に『やる気』を出してくれるのであれば、とうの昔にこの質問は姿を消している筈ですよね。

これに関しては『やる気スイッチ』とよく言われますが、これはどこにあるのでしょうか?

僕の経験上から言えば、
勉強に対する『やる気スイッチ』は何も勉強の中にあるわけではないですね。

もちろん、スイッチが入ってから『やる気』を維持し続けるためのスイッチは勉強自体の中にあるわけですが、最初の起動スイッチは必ずしも勉強の中にあるわけではなく、むしろその外にある場合の方が多いように見受けられます。

ですから、最もメジャーな質問である「どうしたらやる気が出ますか?」に対しては、諸君あるいはお子さんの資質・生活環境のあちこちにゴロゴロ転がっていると答えることしかできません。

言い方を変えれば、現状の『やる気の無さ』は諸君あるいはお子さんの
資質総体・生活環境総体の所産であるとしか言いようがないわけです。

だからと言って、もちろん「どうにもならない」という切ない結論になるわけではありません。

確かに、持ち合わせているアプリオリな資質には、「どうにもならない」零点が存在するかもしれませんが、むしろ、アプリオリに『やる気』なる能力を持ち合わせているわけではないほとんどの私たち誰もが、ここから出発していることも間違いのない事実なのですから…。

さて、ここで神経科学(脳科学)が徐々に明らかにしてきていることが『やる気スイッチ』起動に大きなヒントを与えてくれるのではないかと考えますので要点だけご紹介しておきましょう。

『やる気』の出力源は大脳基底核にある『淡蒼球(タンソウキュウ)』がその出力の源なのですが、不思議なことに、その機能フローは運動野に始まって運動野に帰るループの中にあるという研究成果です。

いくら頭で考えていても『やる気』なんぞ生まれてこない所以です。

僕たちが折に触れて述べている『勉強は肉体労働である』という理論とも違った角度からシンクロして来ますね。

これは、「さぁ勉強しよう!」なる『やる気』が生まれたとしても、それを持続させてくれるのは運動野に関わる肉体労働であるという仮説を価値あるものにしてくれる理論でもあります。

このことに関して、僕は「子どもに手伝いをさせること」に関して「小水がかかる」という言葉を例に出して、この状態を日常的に経験することの重要性についてお話をします。(ビジョンの本編でも何気なく触れています)

もちろん、後述する調査データでも明らかなように、家庭における子どもの役割分担を課す家事手伝いが人格形成において大いにプラスに寄与しているであろうことはあまりにも当たり前過ぎることですし、今は『やる気』にスポットを当てていることもあり、ここでは言及しません。

さて、「小水(こみず)がかかる」という言葉は、僕の母や祖母がよく使っていた言葉で、地方独特の言葉なのかもしれませんので少し注釈しておきますと、「気乗りのしない作業でも、やっている内にもう少しやってしまおうという気持ちが芽生えてついつい拍車がかかってしまう」という状態のことを指します。

この言葉の意味合いからだけでも、
『やる気』が運動野から始まり運動野に帰るというループを描くというメカニズム
イメージとしてご想像いただけるのではないでしょうか?

僕自身の体験上のことではありますが、「小水がかかる」という状態を介在して、その『やる気』というもののスイッチの入れ方にヒントを与えてくれるものであったことは確かではないかという思いと、科学的な解明が綺麗に一致していることから、一つの仮説が浮かんできます。

子どもに家事のお手伝いをさせると学力が上がる?!

勉強に対する『やる気』だけを抽出する?そんな器用な魔法って?

おっと!実は、「子どもに手伝いをさせること」と学力の間には特に強い相関がないことは知った上で、あえて上記の仮説を提示させていただいています。

この相関の無さは、例えば東大生を調査したとしても感覚的に相関性がないという結果が出るであろうとあなたも予測できるのではないでしょうか?
手伝いなんかせずに勉強ばっかりしていた子の方が多いのではないかと予想しちゃいますよね。

なるほど、実際の調査データでもはっきり無相関であるという分析が出ています。

例えば、下記の報告では、「子どもに手伝いをさせること」と学力の間には相関関係は全く見られません。

保護者の子どもへの働き掛けと学力の関係

↑クリックで拡大↑

こう言うと、間髪入れずに「なーんだ、学力と関係ないのならどうでもいいわ!」と仰る諸君や保護者さんも居られると思いますが、ちょっと待ってください。

端から水を差すようで申し訳ないのですが、そもそも一般的に意識や環境と学力との関係には概して非常に強い相関関係というものは見られません。

「単純にこれをすれば学力が上がる!」なんて特効薬は現実に存在しないということです。

それ以上に、「子どもに手伝いをさせること」と学力の間に強い相関があったとして、「だからお手伝いしなさい」と躍起になる姿も傍から見れば滑稽な姿で見ていられるものではありませんね。

さて、一方で、まだネット上ではお話はしたことがないのですが、「子どもに手伝いをさせること」と『やる気』に関する平成21年11月調査のデータがあります。

副題が【子どもの頃の体験は,その後の人生に影響する】と題する国立青少年教育振興機構から次のような報告です。

このデータで言われる『子どもの頃の体験』としては、

  1. 自然体験
  2. 動植物とのかかわり
  3. 友だちとの遊び
  4. 地域活動
  5. 家族行事
  6. 家事手伝い

の6項目が採用され、結果の一つが下記のような表としてまとめられています。

子どもの頃の体験と「体験の力」のカテゴリ間の関係(相関係数)

↑クリックで拡大↑

このまとめ表を見てもお分かりいただけるように。『家事手伝い』は『意欲・関心』及び『人間関係能力』・『文化的作法・教養』・『共生感』など多くの人間的資質とある程度の相関を持つことが示されています。

※相関係数については値が大きいほど相関が高いと考えていただければ結構です。

※相関係数は-1と1の間の値を取り、一般的に絶対値が0.4以上の値を取った時に相関が高いとされます。

また、その中で、相関関数だけでなく相関関数上位の頻度を見てみますと、『家事手伝い』は『意欲・関心』の形成に寄与する要素が大きいであろうことが見て取れます。

不思議なことに、「子どもに手伝いをさせること」と『学力』との相関関係がないのに、『やる気』との相関は一定見られるということになっちゃうわけですね。

「子どもに手伝いをさせること」 → 『学力』・・・相関は認められない

「子どもに手伝いをさせること」 → 『意欲・関心』=『やる気』・・・一定の相関が認められる

さて、ここで勉強に対する『やる気』に限定して『学力』の関係を考えてみましょうか?

勉強に対して『やる気』があることと『学力』との相関関係は相対的に高くなるであろうことは特に科学的根拠を探すまでもなく推測できますよね。

実際に、学習に取り組む姿勢に限定して『意欲』に関する質問をした場合には『学力』との非常に強い相関が出ることが示されています。

一般的に意識や環境と学力との関係には概して非常に強い相関関係というものは見られませんが、これは裏返せば、有機体のように多種多様の要因が絡み合って学力というものを決定づけているということでもあるでしょう。

また、同じ調査項目であってもその内容・態様は多岐に渡りますし、項目だけでは見えない親や他者とのコミュニケーションの性質によっても大いに意味合いが変わって来るであろうこともあるでしょう。

もっと単純な例では、勉強に対して『やる気』があっても的外れな勉強をしていれば『学力』に反映しませんから、勉強に対しての『やる気』と『学力』との相関関係がべらぼうに強いということも期待できませんが、このような場合は『やる気』を自然に喪失していく場合が多いですから、定常的な『やる気』を変数とすれば、やはり高い相関が認められることになるでしょう。

ですから、

勉強に対する『やる気』 → 『学力』・・・相対的に強い相関が認められるであろう

とすることは極めて妥当だと考えられます。

そうなると、これらの実際の調査データは一見して相矛盾する不可解な結果のように思われますが、素直に受け取ると、

「子どもに手伝いをさせること」は『やる気』に対してプラスの作用を及ぼすが、必ずしも『学力』のアップには反映しない。

となります。

この結論に妥当性を与える説明は、

  1. 『やる気』は何も勉強面だけに限定されるものではない
  2. 「子どもに手伝いをさせること」に内在する学力アップに寄与する要素の抽出ができない

ということではないかと考えられます。

「子どもに手伝いをさせること」はその内容から考えて『文化的作法・教養』・『共生感』・『人間関係能力』などとは違和感なく直接的に結びついてきますが、こういった見るからに結びつきが感じられるような働きかけと資質はやはり相関も自然に高くなるようです。

このことは逆に言えば、何も考えず言葉通りに「子どもに手伝いをさせること」を働きかけるだけで、自然にこれらの資質の肥やしになってくれる可能性が高まるということになります。

一方、これらの例に比べると、「子どもに手伝いをさせること」と『学力』は直接的には結びつきませんし、その通り実際の調査データでも相関関係は認められませんでした。

では、「子どもに手伝いをさせること」と『学力』には何の結びつきもないとして捨ててしまうのも、統計の落とし穴の一つである可能性もあるということを考えていただけたらと思うわけです。

相関が低いということは、プラス側にバラついているデータもあれば、マイナス側にバラついているデータも同程度にあるということですから、見方を変えれば、プラス側の人が抽出した要素をマイナス側の人は抽出できなかったと結果であるという解釈もできます。

即ち、誰にもは看破できないけれども、誰かは看破してることでデータがバラついている場合もあるという見方もできるわけです。

ましてや、『家事手伝い』と一括りにしても実際にはいろいろな態様があるわけで親の意図や導き方やフォローなどの働きかけも千差万別であることが、統計的な処理の有効性を限定したものにしてしまうことも頭に入れておく必要があります。

保護者はたいてい「こうすればああなる」というデータを渇望しておられるわけですが、先ほども言いましたように、相関があるといってもそれほど高いものではないですから、「こうしたのにああならないじゃない」という不満もあちこちでこぼれる一方、相関が認められない項目の中に重大な要素を見つけ出すということもあり得るのです。

おそらく「小水がかかる」状態の体験というもの、あるいは思いつくだけでも「整理を工夫させるようなお手伝い」などのように内容を具体化させていくと、これらが『学力』に繋がる本質的な「何か」として抽出すべき有効な要素ではないかと想起されていきます。

そういった意味でも、【勉強に対する『やる気』だけを抽出する】ということは、子どもさんに向き合う心の目をもってすれば出来ないことではないと言えましょう。

勉強に対する『やる気』だけを抽出できりゃ、それでいいの?

『やる気』一般は、何も勉強だけに向けられているわけではありません。
多くの保護者さんは、勉強に対する『やる気』だけを殊の外抽出して、悩まし気に相談されて来られるように見受けられます。

『意欲・関心』及び『人間関係能力』・『文化的作法・教養』・『共生感』などの人間的資質に寄与するだけではダメですか?
人間として、これ以上に尊い資質はないのではないでしょうか?

裏返しますと、むしろ勉強にだけ『やる気』を求めること自体が片手落ちなのではないかと言いたいわけです。

ご相談があった時には、もちろん勉強の方法論において『やる気』に繋がる勉強の仕方をアドバイスをさせていただくのですが、たいていは方法論以前の問題なわけです。

それで、お子さんの生活環境の所産としての主要部分を占めます親子のコミュニケーションといいますか、子どもへの向き合い方にまで拡張してお話を進めなければならないのですが、ここは原理原則の一般的なお話やテクニックのお話を深めることしかできません。

保護者の関与と学力・やる気の相関

↑クリックで拡大↑

こんなお話をするのは、最近、ご相談を受けたお母様が、お子さんがまだ小学校6年生にもかかわらず、「このままでは○○大学へはほど遠く、△△大学(旧帝大)が関の山」と仰るのを聞いて、確かに押しつけがましくならないように自分を言い聞かせて接しておられることは伺えましたけれど、やはりその想念というものは子どもさんに伝わっているのではないかという思いが強くしたからです。

これを受容する側の子どもさんの感度にも依りますが、決して良い結果を引き寄せない危険性を大いに感じてしまいます。

先ずは、最悪でも「人として、共生感を持ち人間関係を穏やかに保ち文化的作法・教養に豊かな人になってもらいたい。」
そこを原点として押さえた上で、学力もそれなりに培って欲しいという願いを添える。

それでいけないでしょうか?

確かに、僕自身も『意欲・関心』だけではいけないと考えている口です。
しようむないことに意欲を燃やされても、『文化的作法・教養』・『共生感』に対立するものであっては意味がないと考えるからです。

だからこそ、どんな意欲を持とうが、勉強に対する『意欲』は必ず並行して持たなければならないものだとすら考えています。

統計データに関するメモ書き

統計データというものは、複雑な様々な要因の関係性を数値で簡単化するということですから、データの採取法・サンプルの性質などによっても大きく変わりますし簡単化する中で漏れていくことも少なくはないですから、やはりその内容そのものを論理的にフォローしていくという姿勢が欠かせません。

本調査データの場合でも、どの値も相関が高いという領域ではありませんが、ある程度の相関は認められましたね。

(これも、相関係数というものについて最低限の知識を持たないと、如何にも相関が強いという思いこみに繋がってしまいます。)

これは言い換えると、人間的な資質は単に子どもの頃の体験という現象的なものだけと1対1に結び付けることはできないが、その体験が主に内包するであろう実質的な何かが寄与しているのではないかという推察はできるということに過ぎません。

逆に言えば、もっと実質的な何かを変数として取れば、相関関数が非常に強い値を取るものがあるであろうということになります。
子どもさんを観察しながら、そこのところを考えていくことが子どもさんと向き合うことに繋がるのではないでしょうか?