人生は一箱のマッチに似ている | 芥川龍之介

人生は一箱のマッチに似ている

2014.4.12著

人生は一箱のマッチに似ている

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人生は一箱のマッチに似ている。
重大に扱うのは莫迦莫迦しい。
重大に扱わなければ危険である。

人生は落丁の多い書物に似ている。
一部を成すとは称し難い。
しかし兎に角一部を成している。

芥川龍之介『侏儒の言葉』より

大人への丸太 たじろがず渡ってみよう

先日、娘が指導する『現代文B』の教科書を見せてもらう機会がありました。
その際、冒頭にある姜尚中氏の随想「大人への丸太 たじろがず渡ってみよう」を短文ゆえ読ませてもらいました。

人生や社会を考える真っただ中にあり、リスキーさを伴うアンビバレンツな時期を通過しつつある高校生への題材として実に相応しい文章がチョイスされていると素直に感じました。

姜尚中氏に関しては、その著作の一篇をも読んだことがなく、また、出演されてるテレビ番組での主張や討論を聞いたことがないので、ここで語ることはできません。

むしろ、この随想の中に芥川龍之介『侏儒(しゅじゅ)の言葉』から冒頭で記した文言の前半部分が引用されていたことで、芥川への思いを書き留めておこうと駆り立てられたに過ぎません。

芥川龍之介

↑photo:芥川龍之介↑
出典:wikipedia/芥川龍之介

実は、この箴言を目にした瞬間に「何と懐かしい言葉に再開したもんだ!」と、そのことだけで嬉しくなってしまった要素が大きいのですが…。

思えば、恥ずかしながら、僕は中高時代に漱石や鴎外をほとんど読むことなく、芥川・太宰・坂口ばかりをはるかに読んでいた自分が記憶に蘇りました。

このアフォリズムを座右の銘ともし、辛いときや挫けそうなときには頭の中に呼び出しては念仏のように唱えたものでした。
『たかが人生じゃないか』と….。

あの時期には誰にでも顔を見せるであろう「バイロン風の憂鬱」に、自分の快感を見出していた姿として冷静に分析的に思い出すことができます。

今や、そんな箴言も、いや、芥川龍之介の名前すらも、浮世の垢にまみれてせわしなく暮らす内にいつしか忘れ去っていることすら意識外のことになっていました。

この懐かしき箴言も、今再び目にすると、芥川の場合は『或る阿呆の一生』における「架空線はあいかはらず鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた」への伏線を感じてしまう一方、逆に、人が幸せに生きるための宝物のような言葉であることも感じずにはいられませんでした。

両極の点と点を結ぶ線の描く軌跡のその危うさがまた、芥川の真骨頂だったんだという思いを深くしました。

僕には未だに理解できない箴言も多いのですが、そう感じながら『侏儒の言葉』を読み直すと、芥川の魂のほとばしりが一つ一つの言葉に恐ろしいほど詰まっていることを感じずにはいられません。

さらに、芥川の時代と現在の我々の時代の精神に何の変りもないことが浮き彫りになってきます。

ついでにご紹介させていただくのですが、「帝都大学へのビジョン」本編の「6時間目:国語!国語!国語!」において、これも現代文Bに掲載されている教材らしいのですが、丸山真男氏の「日本の思想」(なんと懐かしい!)を素材とし、ユニークな英語との融合問題を解説しています。

よろしければ、是非ご一読くださいませ。

鮮やかな輝きを放つアフォリズムたち

今、我々が目にし耳にするトピックに対しても鮮やかな輝きを放つアフォリズムたち!

  • 公衆は醜聞を愛するものである。
    ・・・<中略>・・・
    醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦を弁解する好個の武器を見出すのである。
    同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。
    「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」
    「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」
    「わたしは武者小路氏ほど……」
    公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。

侏儒(しゅじゅ)の言葉 | 芥川龍之介

小保方晴子氏を巡る騒動をみれば一目瞭然ですね!
これが男性研究者であったら、小難しい話としてこれほどの関心を呼ぶことはなかったでしょう。

メディアは『STAP細胞』などは小保方氏の属性としてしか見ておらず、ひとえに小保方氏のタレント性に注目しているかのようです。
だからこそ、芸能雑誌向けのような質問も飛ぶ。

そして、公衆は「わたしは小保方氏ほど可愛くもないし賢くもない。しかし小保方氏よりも良心はある。」と「私の方がマシな人間」である幸福感に酔いしれたことでしょう。

反対に、「小保方氏は可愛いからいじめるのは理不尽だ。人として守ってあげなければ。」などと言った後、自分の公正明大ぶり・善良ぶりに溺れながら幸福感で熟睡したことでしょう。

  • 良心は我我の口髭《くちひげ》のように年齢と共に生ずるものではない。
    我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。
  • 一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。
  • 言行一致の美名を得る為にはまず自己弁護に長じなければならぬ。
  • 古来如何に大勢の親はこう言う言葉を繰り返したであろう。
    「わたしは畢竟失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」
  • 「その罪を憎んでその人を憎まず」とは必しも行うに難いことではない。
    大抵の子は大抵の親にちゃんとこの格言を実行している。
  • 危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。
  • 民衆は穏健なる保守主義者である。
  • 古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数えていた。
    丁度まだこの上にも愚にすることの出来るように。
    或は又どうかすれば賢にでもすることの出来るように。
  • 政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事実の知識だけである。
    畢竟某党の某首領はどう言う帽子をかぶっているかと言うのと大差のない知識ばかりである。
  • 革命に革命を重ねたとしても、我我人間の生活は「選ばれたる少数」を除きさえすれば、いつも暗澹としている筈である。
    しかも「選ばれたる少数」とは「阿呆と悪党と」の異名に過ぎない。
  • 人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にある筈はない。
    この故に往往石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。
    しかし亦権力も畢竟はパテントを得た暴力である。
    我我人間を支配する為にも、暴力は常に必要なのかも知れない。
    或は又必要ではないのかも知れない。

侏儒(しゅじゅ)の言葉 | 芥川龍之介

安倍総理になってから、これらの箴言はなお一層の輝きをもって帰ってきたであろうことは間違いない気がします。

彼等「選ばれたる少数」たちは、おそらく中高時代にこういった精神遍歴をした経験がないでしょう。

いや、そういったことに接することは有害以外の何物でもないから、パパとママに手を引いてもらって丸太を楽々と渡ったことでしょう。

一方で、力ある者、名声ある者に対する尊敬だとか嫉妬だとか様々な思いが、恭順だとか批判だとかの様々な形で、必ずしも線形ではない絡み合いをするのが人の世なのかもしれません。

今後SNSが全盛を極めるようになるでしょうから、ますます、よりクッキリと人間模様の醜い応酬合戦のひだが垣間見れる時代になってくるのではないかと感じずにはいられません。

ある意味、トマス・ホッブス「万人の万人に対する闘争」は、人の世である以上、時代とともに「共感」という衣に着替えながら、永遠不滅に受け継がれていくのではないかと思えます。

その分、醜さと美しさの対照が際立つことで、アフォリズムという存在が今までにない輝きを放つようになるのかもしれません。

どちらにしても、芥川の言うように「公衆は醜聞を愛し、人の噂をし、人の陰口を叩く」ことで、自分の正当性・優位性を確かめようとするものであることは、時代に関係なく変わりはないようですね。

そして、たいていの子どもたちは、その罪を知りながらも親を憎まず育っていくことにも変わりはないでしょう。
しかし、一方では、自分に関わりのない万人に限っては簡単に憎悪の対象にしてしまう環境はますます整ってきたとも見えます。