河原町のジュリー | 凛とした精神と恋人たちの京都

河原町のジュリーに出逢った日

2012.07.07追記

『河原町のジュリー』で検索をかけると、今や、なんとwikiにも掲載されていました。
そして、その中で「河原町のジュリーは、2000年頃からインターネット上を中心にして再び話題に上るようになった」とありました。

まさに、阿月さんがこのエッセイをしたためられ、僕が追従して反応したことがネットでの話題のきっかけの一つになったのかもしれないと思うと素直に嬉しい気持ちが込み上げます。


2000.07.01著

河原町のジュリー in 京都

↑画像クリックで拡大↑

阿月真理絵さんの”言葉の花束”のエッセイページで『河原町のジュリー』を読んだ。

40代前後以上で京都に関わりのある方には懐かしいと思われる方も多いことでしょう。

僕自身は学生時代には、常時、四条河原町付近を徘徊していましたが、その時には彼にお目にかかることはありませんでした。
パチンコに没頭していたのかもしれません。

河原町にルンペンがいるという話しは確かに学生時代に耳にしたことはあると思うのですが、それを『河原町のジュリー』として認識したのは、卒業してからだったかもしれません。

そして、大学を卒業してすぐの頃だったでしょうか?
学生時代の友人である野郎と看護(卒業当時は京大医学部附属看護学校)を卒業して看護士になった女性と3人でまさに河原町通りを歩いていたとき、『河原町のジュリー』とすれ違ったことがありました。

「あっ、ジュリー違う?」

その声に、キョロキョロ探すと、看護士の女性が「目を合わせちゃだめなんだって!」と言うのです。
そのとき、ジュリーの風貌を初めて鮮烈に焼き付けた想い出があります。
何か近づきがたい厳としたオーラというか威厳があったように記憶に留めています。

ちなみに、「Mちゃん」って呼んでた看護士の彼女は、今でも僕のことを「出会った頃(18歳)は、なんて冷めた見方する人なんだろうと思った」と言います。

18歳にして、そんなことを思わせたのには少々罪深さを感じてしまいますが、そりゃぁそう思ったのも当然かもしれません。
そんな彼女も、どこだったかの看護学校の校長から、奈良女子大学で博士号を取られて、今や大学教授になられています!・・・僕の体たらくぶりとは大違いです。

まあ、おっとりした姉御肌に頑張りが加われば、当然のことかもしれません。

河原町のジュリー~あるルンペンの思い出~:素敵なサイトがあった!

さて、河原町のジュリーの内容は、僕などが書くより、阿月さんの綺麗な文章でお読み頂くのがよいかと思いましたが、既にサイトは閉鎖されてしまいました。

ところが、↓


2007年8月、正真正銘の阿月様よりメールを頂き、下記サイトでバックナンバーが公開されている旨ご連絡頂きました。
その後、変遷がありましたが、現在は下記から閲覧いただけます。

その後、2019年にチェックしましたら、こちらも既に開かなくなっています。
昨年ぐらいまでは開いたはずなのですが…。

少し探してみましたが、2ch的な人を中傷するような書き方しかできない連中が増えてきたからでしょうか、現在は、自分用だけのアーカイブとしてしか利用されていないのかもしれません。

批判するのは良いことですが、それがまともに出来ないで中傷的な書き方しかできないのでであれば、それは、自分では何もできないゴロツキ評論家です。

そういった輩ばかりが増えてきていることで、サイトを未公開状態にされているのかもしれません。

彼女は、文学や映画・音楽・絵画などの話題やWeb技術にも長けておられるようで、IT技術に関する話題も加えて、2000年以前からユニークな視点で、日常の暮らしから、恋愛・子育ての話題まで発信されていました。

看護士を勤められた後、国際結婚をされEU圏内に住んでおられますが、この多忙で変則的な生活を余儀なくされる職業にして、これだけ多彩な文化を題材に、多くのことを語れる博学さと、且つ感受性と優しさの豊かな女性は、めったにお目にかかれるものではありません。

でも、お会いすれば普通のざっくばらんな女性であることは、私には容易に想像できます。

ということで、残念ながら、すでにHPをご案内することが出来ません。

河原町のジュリー~あるルンペンの思い出~

もともと、ご姉妹でサイト【阿月工房】を運営されていたように思いますが、おそらく、今回メールを頂いたのは、お姉さんのサイトにエッセイ【eclipse】を掲載されていた妹さんだと思います。
どちらにしても、ご姉妹そろって、素晴らしい感性で文章を書いておられました。

現在は阿月まりさん、あるいはベルバラ関連のエッセイでは優月まりさんとして、サイトを運営されています。
素晴らしい知的感性が溢れる「恋と生き方」のエッセイページですので、是非ご訪問されてみてください。
国際結婚されて落ち着かれた今、新たなサイトとともに子育てのメールマガジンも発行されています。

サイトのTOPページは↓こちら↓です。

残念ながらリンクは無効になりました:sanmarie*com

阿月ファンだった僕としては、メールを頂いたときには、探し物を見つけたときのように嬉しい思いが溢れました。

何か全てを包み込みながらも凛とした京都の精神

『京都』には大阪や神戸には無い、凛とした精神のようなものが流れています。
時代に関わり無く、一人のルンペンの存在などが話題になるということ自体が『京都』ならではという感がしないでもありません。

神戸が大阪と全く違った臭いがすることとは全く次元を異ならせて、『京都』は大阪や神戸とは全く異質なんですよね。
同じ近畿にありながら、全く異質なんです。

確かに、地域社会に根付いて生活するにはどうなのか分かりませんが、少なくとも学生やスピンアウト人種にとっては包容力のある街であることだけは確かだったような気がします。

蜷川府政が無くなった後、政治的には同質化しても、感覚としては依然として他の大都市と同質化はして来なかった(と僕は思っている)のは『京都』の持つ独自『文化』の匂いは残り香のように漂っています。

時代の流れの中で『大阪』の後追いを志向していたなら『京都』はおそらくダメになっていたでしょうし、また、それをさせないのが『京都』の厳たるプライドだという気がします。

いつまでも、京都は『京都』であり続けてほしい・・そんな願いは僕だけでしょうか?

京都が『京都』でなくなったら・・・。
日本自体が、灯台を失って漂流する小船のように安心できる拠り所を失ってしまうような気がするのです。

日本にとって、唯一『京都』は無くてはならない存在ではないでしょうか?
『大阪』は無くしても、『京都』は決して無くしちゃならない!

さても、阿月さんの書かれているように、

>「ルンペン=落伍者・敗北者」と短絡的に考えているうちは、
>運の本当の恐ろしさなど、まるで分かっていないに等しい。

という言葉の本当の重みが体で分かってきている今日この頃です。

河原町のジュリーは自分自身なのかもしれないとつくづく思うのです。
でも、実際にそうではないところに、自分のウソが隠されているのだよね?
人は、それを『大人の良識』という言葉で説明するけれど・・・。

注記

阿月さんの現在掲載されている文章は初稿だからかもしれませんが、上記の引用文は掲載されていません。

僕が愛した恋人たちの京都

京都をモチーフにした素敵な恋の曲があります。
どれも、河原町のジュリーが居た70年代に巷で流れ、よく口ずさんだ曲です。

卒業した後、神戸に戻っても、必ず京都はデートコースに入れたものです。

学生時代に共有した街といった事情もありましたし、二人の地理的な事情もありましたが、京都か神戸か姫路でデートがお決まりで、申し訳ないことに大阪でデートすることは一度もありませんでした。


嵯峨野さやさや(1975年)・・・たんぽぽ

京都嵯峨野の 直指庵
旅のノートに 恋の文字 どれも私に よく似てる
・・・・

何といっても、嵯峨野・嵐山でのデートが最も思い出深く、決して彼女が心変わりしたというわけではないのに、この歌詞が身に染みるほどに、二人で歩いたこと、茶屋で休憩したシーンが脳裏に残っています。

今では、人が多すぎてって感じがしてしまいますが、やはりNo.1。
その他では、やはり、貴船・鞍馬や大原、あるいは変わり種で大原野といったところでしょうか。

京都で逢った人・・・深野義和

京都で京都であった人 忘れはしない
いつかしら もう一度 訪ねてみたいの
・・・

この歌をご存知の方は少ないのではないかと思います。
僕も卒業してから聴いた歌だと思うのですが、僕たちが友達以上として付き合い始めたのが卒業してからだから、なおさら心に染みる歌です。

クイズ

この歌詞の中で、嵯峨野・嵐山から程遠い名所名(地名)が一つだけ出てきます。

ちょっとマイナーですが、どこかお分かりになりますでしょうか?

何かの勘違いなのか、ここからこの〇〇〇が見えたのかは私にも分からないままです。
いくら見えても、「アッ!〇〇〇が見えた!」と言えるのは、地元の人か相当の京都通だと思われます。

女ひとり・・・デューク・エイセス

京都大原三千院 恋に破れた女が一人
結城に塩瀬の素描の帯が 池の水面にゆれていた
・・・

2007年追記

この夏、娘に同女の友人の下宿から行けるおすすめスポットを聞かれた。
【貴船街道 恋の道】をおすすめとしておいた。
決して、下らぬ男とは【恋】はするなよ!と願いつつ…。