プラトニック・セックスに見る飯島愛の愛と孤独

プラトニック・セックスに見る華やかな世界の孤独死

2011.08.05著

プラトニック・セックスに見る飯島愛の愛と孤独

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飯島愛さんの著作『プラトニック・セックス』を読まれた方も多かろうと思います。

特に、愛さんの死(2008年12月24日発見、17日が死亡日と推定)が報じられてから読まれた方が圧倒的に多いのではないでしょうか?

もう、あれから2年以上が経ってしまいました。

飯島愛さんへのレクイエムとして記してみました。

本コンテンツは、阿月ヒカルさんのエッセイに触発されて認めたコンテンツです。

尚、阿月ヒカルさんの現在のコンテンツページは↓こちら↓

旧「言葉の花束・Eclipse」より『愛』が欲しい ~飯島愛の「プラトニック・セックス」

飯島愛さんは、AV業界から転進してマルチ・タレントとして活躍していた女性ですが、テレビに出演している姿を見ている限りでは、薄汚さはほとんど感じさせない不思議な意外感を感じさせた女性でしたし、稚拙なまでのストレートさと突っ張りに妙に好感が持てる印象が強かったですね。

もちろん、タレントとしての演技が含まれていたのかもしれませんが、無理な糊塗はされていなかったように感じていました。

私も、多くの人がそうであっただろうと同じく、彼女自身を深く知ろうともせずに、独断的に「所詮、AV女優の成り上がりではないか」という偏見しか持っていなかったというのが正直なところでした。

とは言っても、飯島愛という女性をどうのこうのと批評するものではない限り、誰しも、彼女のことを深く知る必要性もなければ義理もないわけですから、それはある意味当然のことだったと思います。

人が、「この人のことを知りたい」と思うのは、興味の問題や相性の問題が大きく関与しているわけで、それも偶然のきっかけで表象化してくるという場合がほとんどではないかと思うのです。
人と人との出会いということ自体がそういうものなのだと思います。

ともかくも、本書『プラトニック・セックス』に接すると、彼女における表現のストレートさや、あるいは屈折度や、一般の人々に好感度が抜群だったことなどには、それなりの確かな背景と理由があったのだということが垣間見れるのではないかと思います。

華やかな世界に身をおいた人としては不釣合いな孤独死。
いや、虚構の世界に身をおいた人だからこそ相応しいと言えるのかもしれない孤独死。

そこには、飯島愛さんとご両親との間の、特に父親との埋めても埋め尽くされない、あるいは取り返しのつかないような確執の結末としての悲哀が満ち満ちています。

これだけの潜在的に豊かな知性と感性を持った女性なら、もう少し違う道を歩むことは出来なかったのでしょうか?という思いが切々と湧いてきますが、一度道を踏み外すと、そうそうは簡単に普通の道には戻れないのが常です。

そこには、心理的な慣性の法則に抗えない人間の性があり、それにつけこんで、さらに追い打ちをかけるのが社会の掟というものだからです。

最初に発した「自分の言葉」は、後悔の念に駆られようと駆られまいと、それ以降の自分の言動を支配してしまいます。

それと同じように、自分に欠乏した『愛される』実感を求めて、裏切られるごとにさらに過激に求めて止まなかったのが飯島愛さんの人生そのものだったのではないでしょうか?

そういった意味で、それぞれの人間が生きる原点となる親子関係の重さ・大切さを共に感じていただければ幸いです。

人は孤独への防衛線を張る

『プラトニック・セックス』から鮮やかに浮かび上がってくるのは、人間ならば誰もが、言いようのない「不安」として持ち合わせている「孤独」という2文字ではないかと思うのです。

ある意味、人は「死」よりも「孤独」に恐れおののいているものではないでしょうか。

私たちは、その孤独から逃れるために策略を巡らせ、その構築や保守のために毎日を送っているといっても過言ではないと思うのです。

謂わば、孤独への防衛線を張り巡らせる毎日のことを「人生」と呼んでいるのかもしれません。
集団への帰属は、その防衛線の最たるものではないかと思えます。

カップル画像

それぞれの人間がそれぞれの防衛線を張り巡らせる最も大事業が、恋愛であり、結婚をし家庭を築き子どもを育てる営みです。

そして、それが個々人一人一人の防衛線である以上、恋人はもちろんのこと、たとえ家族であっても、そこには軋轢というものが生じてしまうのです。

「愛」を巡る悲喜劇は、この「孤独への防衛線を張る」という営為自体に自ずと内包されているものと考え、覚悟しておかねばなりません。

誰もに内在する無縁社会への憂鬱

今、「無縁社会」という言葉が大きくクローズアップされています。
地縁・血縁・社縁以外の第4の縁の必要性などが提案され議論されています。
これは、第三者によって「孤独への防衛線」を張ってあげようという試みに他なりません。

この「無縁社会」という言葉と、飯島愛さんの孤独死や彼女の著作「プラトニック・セックス」を対照させて眺めると、私たちの多くは「有縁」であっても、本当のところは、限りなく「無縁」なのではないか?
という深い憂鬱を浮き上がらせるような思いをしみじみ感じさせられてしまいます。

何らかの事情で社会的な縁を全て失ってしまった「無縁」者の問題と同じように、いや、それ以上に奥深くに潜んだ問題を私たちは内包しており、これを超克していかなければならないのです。

この「孤独」を巡って交錯した悲劇が、飯島愛さんの人生を曳航してきたという気がしてなりません。
ここから感じ取ることは数回にかけて書き綴らなければ言い表せない重さと切なさがあります。

おおよそタイトルからは想像のつかない人生の意味合いへの問いかけがあります。
それも、生身の魂からほとばしるリアリティをもって発せられただろうからこそ伝わる哲学書では書き得ないメッセージとして迫って来ます。

ただ、私にはどうしても分からないことがあります。

飯島愛さんは、「パパ、ママ、こんな娘でごめんね。」という文章で締めくくっています。
ご両親と和解したということなのでしょうが、何故、和解したにもかかわらず、この書を出版したのだろうかという真意が分からないのです。

独りぼっち 飯島愛36年の軌跡

この書は、ご両親に対する痛烈な恨みと批判が含まれています。
おそらく、第三者である読者は、その多くがご両親に対して軽蔑や批判の目を向けることでしょう。

そのことは、タレントという人気商売をしている飯島愛さんが一番よく分かっていたはずです。

この書を出版するということは、ご両親や家庭の見られたくない部分を衆目に晒すことになります。

「パパ、ママ、こんな娘でごめんね。」という懺悔と著書の公開という事実のアンバランス。

本当なら、いや、本当に和解していたなら、この書籍は誰の目にも触れることがなかったのではないかという思いがしてなりません。

もちろん、ご両親の納得済みで発売がされたと言うなら、それは理想的な和解だとは思うのです。
ご両親が、必要以上の暴力で躾けたことを心から詫び、娘を否定し続けたことを心から詫び、これからどのように償うのかを具体的に明示し、態度で示し、それを親子としての子どもの側の情として許すという構図でないと本当の和解などは出来るものではないだろうという思いがするのです。

本に書かれていることが事実だとすれば、もちろん耐えうる子は従順に耐えるのかもしれないという個人の特質や個性には帰着できない、人間の尊厳に関わるほどの重さを持った、ある意味、取り返しがつかないレベルであると汲み取れるのです。

母親が自分を産んだ歳になって、初めて母親の葛藤は理解できたとしても、決して自分はそのような親にはなるまいと思うのが常なのではないかと思えます。

母親の立場やそれに由来する桎梏が理解できたからと許す気持ちになる寛容は、親子といえども、とても素晴らしいことです。

しかし、その理解が、自分の子どもにも、どうにか言って聞かせて同じように育てようという理解へと到達するなどということは、到底あるはずもないことです。

ともあれ、この世に生を受けて、少女として育つ最初から、自分の「性」を痛めつけて生きたいと誰が思うでしょうか?
そして、どこの親がそんなことを望んで愛娘に名前を付けたことでしょうか?

飯島愛さんにしても、刹那の性愛の空虚さに、どれだけ反吐を吐いていたことかということが著作にも滲み出ています。
その空虚さを埋めるべき何物も勝ち得なかったが故に、さらに自らの性を痛めつけ、体を痛めつけるという泥沼にはまってしまったように感じられます。

飯島愛~求不得苦(ぐふとっく)を背負い続けた人

ハート画像

まさに、求不得苦(ぐふとっく)

求めても求めても得られない苦しみを彼女は背負い続けたのではないでしょうか?

求めて已まなかったもの、それこそが『愛』だったのは明白です。

実際に息を引き取ってから約1週間、誰にも気付かれなかった最期。

両親と和解してすら癒されない傷跡の深さを象徴するかのような思いがするのです。
「とうとう最後まで、私の求める愛に近づいてくれる人は現れなかった。」
そんな呟きが聞こえるような気がするのです。

もちろん、昔のようなフィロソフィーを持った芸人が少なくなった今、昨今の芸能界のような虚業の世界では、真実の愛など得ること自体が稀有なことでしょう。
そういう方向から見れば、最初から求めるものなど無い世界で、空しく求め続けていたのかもしれません。

もちろん、彼女に鉄壁なまでの完全な愛を求め過ぎていた面があったのかもしれません。
もしかすれば、少欲知足で得られた筈の愛を逃していたのかもしれません。
しかし、それは近くで長く接していない限り推測できるものではありません。

季節のない街に生まれ
風のない丘に育ち
夢のない家を出て
愛のない人に逢う

愛の流転を彷彿とさせる泉谷しげる氏の『春夏秋冬』が、これほど似合った人もそう多くはないかもしれません。

人は弱いものです。
肉体は意外に強靭に作られていても、心は至って弱く脆いものです。
ちょっとした運命のいたずらで私たちにもやってくるかもしれない・・・。

このようにさせたものは何だったのか?

「愛」が実り多い「愛」となるために、健やかな「愛」となるために、次回は、「親の愛」について考えてみたいと思います。

阿月ヒカルさんサイトの変遷

月日が経つとともに、阿月さんのサイトにもいろいろと変遷があり、それに追随する形で極力リンクの変更を行ってきました。

2019年のチェック時には、阿月さんへのリンクを貼る数ページで下記のように記載しておりました。

2007年あたりに一度、URL変更のご連絡をいただき修正していたのですが、2019年にチェックしましたら、こちらも既に開かなくなっていました。

昨年(2018年)ぐらいまでは開いたはずなのですが…。

少し探してみましたが、2ch的な人を中傷するような書き方しかできない連中が増えてきたからでしょうか、現在は、自分用だけのアーカイブとしてしか利用されていないのかもしれません。

批判するのは良いことですが、それが中傷的な書き方でしかできないのでであれば、それは、自分では何もできないゴロツキ評論家です。

そういった輩ばかりが増えてきていることで、サイトを未公開状態にされているのかもしれません。

彼女は、文学や映画・音楽・絵画などの話題やWeb技術にも長けておられるようで、IT技術に関する話題も加えて、2000年以前からユニークな視点で、日常の暮らしから、恋愛・子育ての話題まで発信されていました。

看護士を勤められた後、国際結婚をされEU圏内に住んでおられますが、この多忙で変則的な生活を余儀なくされる職業にして、これだけ多彩な文化を題材に、多くのことを語れる博学さと、且つ感受性と優しさの豊かな女性は、めったにお目にかかれるものではありません。

でも、お会いすれば普通のざっくばらんな女性であることは、私には容易に想像できます。

ということで、残念ながら、すでにHPをご案内することが出来ません。

2019年追記記事

2020年、わざわざ、新たなサイトで運営されていることをご連絡いただきました。

特に育児系コンテンツはパクリ被害が多いことに辟易とされて、現在は有料コンテンツにしておられるそうですが、本標題のコンテンツのみは、私どもが紹介しているということもあって全文公開分の中に入れていただいているようです。

ネットで小遣い稼ぎする素人ライターなどは、如何に他人のコンテンツを平気でパクっているのかを如実に表していますよね。

当事務所の学習関連のコンテンツですら、某塾にほとんどパクられていることが明らかなものがあります。

ともかくも、阿月ヒカルさん(現在はペンネームとして使われていませんが…)の全文閲覧可能コンテンツは下記から出会っていただけます。

2020年追記記事

最古アーカイブ:2007年8月

2007年8月、正真正銘の阿月様よりメールを頂き、下記サイトでバックナンバーが公開されている旨ご連絡頂きました。
その後、変遷がありましたが、現在はちょっと見れないようです。(格納されたのかな?)
その代わりと言ってはなんですが、下記の記事をご紹介しておきましょう。

もともと、ご姉妹でサイト【阿月工房】を運営されていたように思いますが、おそらく、今回メールを頂いたのは、お姉さんのサイトにエッセイ【eclipse】を掲載されていた妹さんだと思います。
どちらにしても、ご姉妹そろって、素晴らしい感性で文章を書いておられました。

※上記の点に関しては、おそらく私の推測違いだと思います。
でも、そういうペンネームからの推測も楽しい時代だったと今更ながらに思います。

現在は阿月まりさん、あるいはベルバラ関連のエッセイでは優月まりさんとして、サイトを運営されています。
素晴らしい知的感性が溢れる「恋と生き方」のエッセイページですので、是非ご訪問されてみてください。
国際結婚されて落ち着かれた今、新たなサイトとともに子育てのメールマガジンも発行されています。

あらためて、サイトのTOPページは↓こちら↓です。

阿月ファンだった僕としては、メールを頂いたときには、探し物を見つけたときのように嬉しい思いが溢れました。

2008年追記記事

阿月さんの著作とスタンス

当サイトでは、阿月さんの本名は差し控えさせていただきますが、その後、Amazon Kindle版にて下記の著作を公開されています。

やることが多すぎる割には、やはり体力の衰えもあって悶々としている私も、マイペースで読もうと思っております。

真面目な医療寄りのSFでした。

私も一応へっぽこ看護師ですが、かつて看護師であったという筆者の、生化学から臨床推論まで幅広い医療知識を尊敬せずにいられません。

なぜか誤字が少しありますが、全く気になりませんでした。

舞台となるTOWERを始めとする建築や景色の描写は美しく、登場人物たちの正義や葛藤には共感するものがあって、医療だけではなく聖書に関連したことが学べて、なによりアドナとスティンの恋愛がとても魅力的でした。

悲劇的なラストでしたが、逆に美しさが際立って読み終わりました。

本格的なSFで面白かったです。ありがとうございました。

“TOWER”の読者レビューより

阿月さんがプロフィールで書かれていることとダブりますが、インターネット黎明期は本当に魅力的なサイトやブログが百花繚乱でした。

もちろん、明らかな詐欺情報も多くあり、悪意への免疫を持たない一般層の多くを食い物にした側面もありましたが、一方で、個性的な人々に出会って討論や意見交換の場も多くあり、広い世界を学ぶ機会がふんだんにありました。

私自身も教育関係のメーリングリストに参加していましたが、いろんな教育観があったり、いろんな突っ込みがあったりして、感性や知性が鍛えられたものですが、今や、それが安直な感性だけで浅薄な言葉が撒き散らかされるSNSにとってかわられています。

私も、2000年にして「ミヒャエル・エンデとインターネットバブル」にて、下記のように記していました。

資本が「IT」に本腰を入れてGOをかけて来た以上、やはり、この領域も一般社会と同様に冷徹なまでに資本の論理が支配するようになるのは時間の問題だということもある。

「ミヒャエル・エンデとインターネットバブル」(当サイトに移設済)

そして、資本のためのインターネットが完遂されたのが、阿月さんが書かれているように、2020年5月のGoogleコアアップデートでした。

その結果、阿月さんが書かれているように、今やインターネットはますます野心ある資本の電話帳と化し、資本の傘下でうっぷん晴らしや暇つぶしをする一般利用者のための享楽道具となり果てました。

だからこそ、そんな中でも、阿月さんの知性・感性・表現力・文才の足元にも及ばないにせよ、少しでも真実に近いところを未来へのことづけとして残せるように営々と運営していこうと考えております。