恋の間合い~携帯メールと恋文に見る恋愛模様

携帯メールと恋文に見る恋愛模様

執筆当時のままの原文で転載致しますので、「携帯」「携帯メール」という言葉は、現在ではそれぞれを単に、「スマホ」と「メール」あるいは「Line」に置き換えてご一読いただければ幸いです。

2011.08.03著

恋の間合い~携帯メールと恋文に見る恋愛模様

前回、「間合い・TPO・節度を巡る「美」の断章」で「間合い」や「TPO」は「節度」に帰結し、それが「美」の根幹を成すといった総論的な主旨で書いてみました。

前回も少し触れているのですが、今回は、恋愛のシチュエーションでの「間合い」について、思いつくまま書いてみようと思います。

さて、いまどきは、電車に乗っていても歩いていても、多くの人が携帯画面と向き合っています。

若者だけではなく、おじさんやおばさんの同じ様を見ると何だか滑稽に見えるときもあります。

まぁ、誰もがメールをしているわけではなく、いろいろな使い方をしているのでしょうが、実に便利になったものだと思う一方、ここまで来ると少々気味が悪いという気がしないでもありません。

その携帯は、恋人たちにとっても実に便利な代物ですよね。
デートの待ち合わせの時も、行き違いでスカを食らうこともありません。

そして、いつでも、相手にメールや電話で連絡が取れるのですよね。
ある意味、いつでも彼氏・彼女が傍に居るような感覚になれます。

でも、携帯が普及する前までの恋人たちにとっては、「なんと羨ましい時代になったのだろうか」と羨むのかと思えば、そうでもないようです。

これは、僕だけのひねくれた感想でもなく、実は、ネットですら現実に真逆の感想が多く見られます。
それどころか、逆に、今の若者たちが昔の恋人たちを憧憬している様さえ見受けられます。

生まれたときから携帯が当たり前の世代には、携帯が無いという生活は想像も出来ないでしょうから、そんな昔の時代の恋人たちの風景と言われても対比のしようがないかもしれません。

だからこそ、携帯前の時代と対比することで、今では当たり前の携帯というものも、使い方次第で、恋をうまく育てることができることの大きなヒントになることをここではお話ししておきたいと思います。

1回ではうまく書けないかもしれませんから、ことあるごとに推敲し修正するかもしれません。

と言いながら、言葉よりも何よりも、今の若者たちが昔の恋人たちを憧憬している理由が一発で分かってしまうCMがあります。

2019年現在では、アラフィフに近い世代以降は、おそらく「あっ、あのコマーシャルだろ!」とお分かりになると思います。

答えがすぐに視界に入ってしまうと興ざめですので、もう少し下で何気なくご紹介することにしましょう。

そもそも、「恋」自体は、昔も今も、その本質は何も変わることはないのです。
むしろ、携帯だのスカイプだのの便利なツールがあるからこそ見えなくなってしまった部分も多々あることは確かだと思うのです。

ここでは、恋の正体に少し思いをめぐらせていただければ幸いです。
女性のご訪問者様が多いと思いますが、男性の目線を勉強しているのだと思って気軽に読まれてください。

時代遅れの男の目線から見る恋の間合い

彼女のことを思い焦がれても、すぐに連絡が取れるはずもなく、頭の中に、彼女の笑顔や話し声を思い浮かべては、

  • 今度は、どのようにコンタクトしようか?
  • 今度は何時会おうか?
  • いや、いつ逢えるだろうか?

あなたが女性だったとしても、そんな思いをめぐらせる時間を取ったことは多々あるのではないでしょうか?

どうしても声が聞きたくなったら、あるいは、デートに誘おうと決心したら、電話するのですけれども、思い返せば、僕たちの学生時代なんて、男女にかかわらず、直接部屋に繋がる電話を持っている人すらいなかったのですね。

同性の友人の場合でも、多くは下宿。
下宿と言えば共同電話か大家さんに取り次いでもらう方式。

「**君、でんわー!」
「すみませーん」
そんな風景が当たり前でした。

女の子に連絡を取りたければ、たいていは女子寮か下宿先か実家に電話しなければなりません。
ところが、実家の場合などは男にとっては最悪というものなんですね。

後ろめたいことは何一つないのだけれど、後ろめたいんですね。
男からの電話を歓迎するような親はたいてい居ませんから・・・。

いぶかしげな雰囲気で、あるいは不機嫌な無愛想さでもっても、取り次いでもらえれば、まだマシな方。
「娘に何の用かね?」などと尋ねられることも少なくはなく、はたまた、ガチャンと切られる場合すらあるわけです。

そんなことは、明日に日が昇るのと同じぐらいの確実さだと学習していますから、ともかくも、勇気を奮いたたせて電話をすることになるわけですが、実際に電話をするまで、チョト時間がかかることになるわけです。

こう問われれば、何と答えようか?
親の関門を超えれば、今度は当人にどうやってデートの誘いを切り出そうか?
どう言えば、気持ちよく許諾してもらえるだろうか?

そんな作戦を練るのに、他人に見られたら恥ずかしいような優柔不断さで時間を費やすわけです。

結局、電話かけた後で、それらの準備を見直してみると、ほんの2、3分もあれば準備できるんじゃねぇというほどのものなんですね。
男は、プライドが高く、だからこそ傷つくのが怖い臆病な生き物ということを表わす一断面です。

でもね、この勇気を奮って決断するまでの悶々とした時間があるからこそ、デートで会えたときの嬉しさを倍増させてくれることにはなるのです。

このコマーシャルは、今となれば不滅の秀作になってしまいましたね!

遠距離での恋や遠距離での片思いとなると、そのハンディ環境だけで、実に感慨深いデートになります。
障害が恋を一層激しく燃え立たせるのと同じように、
この「時間や空間の隔たり」というものがあるからこそ、熱き恋心を醸成してくれることは確かです。

だから、携帯メールでしょっちゅう遣り取りできる安心感は、逆にあまりにも当たり前になりすぎて、馴れ合いになってしまうような気がするのです。

時間の隔たり、空間の隔たりは、恋が刹那的であるからこそ、よりその刹那の意味を深く感じさせてくれるのです。

僕も卒業して社会人となってから結婚するまでの時代は、学生時代に片思いだった人と遠距離交際が続きました。

「交際」って書いたのは、拒否られなかったからという理由だけからであって、相手は「交際」って思っていたのかどうかは未だに疑問ではありますが・・・。

でも、「そもそも、片思いでない恋なんてあるのかな?」って思うんですよね。
相思相愛だと言い張っても、少なくとも最初は片思いだった筈・・・。

スタンダールの「恋愛論」

スタンダールの「恋愛論」を読まれた方も多いかとは思うのですが、こんな言葉があります。

「愛し合う二人の人間の恋は、ほとんど決して同じではない」

ウーン、僕も実にそうだと思うのです。

そんなこんなで、僕たちは手紙での遣り取りが主でした。
結婚するためには大きな障壁があったため、実家に電話をするのもしづらかったこともあります。

ですから、本当に本人の手に手紙が届いているのかどうかですら最初は不安でした。

今でこそ、あの時に携帯があれば、どんなにメールしただろうかと思うのは思うのですが、そういうものが無かったらこそ、あの時の思いが今でも胸に大切に刻まれているのだとも思えるのです。

恋には、『ほどよい間合い』というものが必要だとしみじみ感じます。
この間合いの中で、相手を思い焦がれる時間を費やす。

まったりとした時間、ジリジリとした時間が相手への思いを醸成していくのですね。
それは、デートをしている最中よりも、もっとロマンティックな時間だったとすら言えそうです。

彼女の声を聞きたくて、居ても立ってもいられなくなって、100円玉をいっぱい無理やりに作って、ゆっくり話せるお決まりの公衆電話から電話するわけです。
まだ、テレホンカードも出るか出ないかの時期・・・。

その1秒1秒のナント愛おしいことか・・・。
楽しく語らったり、ちょっと怒らせたり、悲しくさせたり・・・。

そして、デートの当日、お互いの中間地点の駅で特急列車がホームに滑り込むのを待つのです。

ぞろぞろと多くの人が改札を目指して歩むその中に彼女を見つける。
そして笑顔でお互いに手を振り合い、距離が急速に接近をしてくる。

今日1日が、かけがえのない時間になることを祈って彼女を出迎えるわけですが、過ぎ去れば刹那の出来事。
再び、特急電車に乗り込んで帰っていくのを見送らなければなりません。

残念ながら、最終的なパートナーにはお互いになれなかったですけれど、いつでもお互いの幸せを祈れる良き友人として、お互いの魂に刻まれた人として、今でも交友できているのですから、理想の形だったのかもしれません。

1年に1度ぐらい、今でも、あの頃の姿として彼女が夢に出てくることが不思議です。

携帯の普及と恋の間合いの消失~言葉を失うがいい!

機関銃の速射のようにメールが届いたとして、そこに見るものは何でしょうか?
「ウザイ」

そう思われても仕方がないのは、そこに、一方的に必死に火をつけようともがく滑稽さ以上に、軽々しく文字にしてしまう軽薄さを見るからに他ならないと思うのです。
「私のことを本当にじっくり知ろうとしてくれているのだろうか?」

かなり、偉そうですが、恋の究極の姿を教えましょう。

恋の究極の姿は、ホント「言葉を失うこと」です!

別に「狭き門」のアリサとジェロームになれと言っているわけではありません。

ジッドも二人を称賛する意図で書いたのではないことは僕でも読み取れましたが、それでも、あと一息というところで完読を放棄しました。(ちょっとしんど過ぎ!)

正確に言えば、「言葉にすれば、その瞬間に嘘になることを知っていること」です。
にもかかわらず、僕たちは言葉を発することでしか思いを伝えることはできません。
誠実に正確に言葉にしようと思うところに、意のままに言葉に出来ないもどかしさが常に付きまといます。

ですから、相手への思いを自分の言葉で発しようとする経験を放棄すること、お決まりの文句を手っ取り早く繋ぎ合わせるだけで済まそうとすることは、否応なく自らの不誠実を露呈しているだけに過ぎないことを、賢明な女性は見抜きます。

寡黙な男、あるいは逆に道化師の如き男がモテるのは、この真実の近傍を見るからです。
3高でモテている男性は別として、そういう属性とは別の部分で、心と心の繋がりで恋愛を感じたいと考える男女は、そういった恋愛の光と影を感じさせながら、反って誠実さという不思議なオーラを放っているものです。

女性とて基本的には同じではあるでしょうが、少しプラスαが加味されるかもしれません。
寡黙な女性というのは、男性の目からみれば少し荷が重いのが一般的でしょう。
もちろん、これは純粋に相性などの要素も複合的に作用しますから一概には言えません。

しかし、一般的には、「そこに居るだけで場の雰囲気が和らぐこと」が一つの大きな条件になることは、男目線から見ると間違いがないと思うのです。

そこに居るだけで『場』の雰囲気が和らぐ女性

たとえ寡黙な女性であっても、この雰囲気を持つ女性に男の多くは惹かれます。
僕が物理系で「電磁場」とか「重力場」とか『場』という言葉が好きな故の表現ではありますが、男女にかかわらず、お互いに「安心できる場」を求めていると言えるのではないでしょうか?

他愛も無いバカ話をいくらキャッキャと喋ろうが、明るく振舞おうが、容姿が良かろうが、それとモテることとは全く別物なのです。

愛する人

恋とは手間隙であり、恋とは感じること

どんなに時代が進化しようとも、恋は、自分に手間隙をかけてくれる人へと求心しながら吸い込まれていくもの。
そのことに、男と女の差異はありません。

思い焦がれて切々たる自分の言葉を探して書かねばならない恋文と手っ取り早く送ったメールとでは、手間隙が全く違うのです。

その手間隙こそが、相手を思い焦がれる深さや愛へと繋がり得る思いやりを量る重要な指標なのです。

恋とは感じるものです。

特に、女性の場合は「感じる」ことに敏感です。
「感じる」ことができる女性は、賢明な女性です。

賢明な女性は、「感じる」ことで相手のエゴか真剣な思いかを見事に見抜いているものです。

彼女たちに、それを見極めさせるもの。
その一つが、『時間的な間合い』であり、『空間的な間合い』です。
『間合い』の悪い男性には、それだけで失望するに足るでしょう。

『間合い』と言うと、「どのぐらいの間隔でメールすればいいの?」
「返信は何分ぐらいでするのがいいの?」なんて質問をする方も居るようです。
だから、ダメなんですよね。
それを考えるのも、手間隙なんだということが分かっていないのだと思うのです。

それ以前に、

  • 相手のことを本当に知ろうとしているのか?
  • 本当に思い焦がれているのか?
  • 恋に恋する対象として、たまたまそこに居たというだけで選んだエゴじゃないのか?

そんなことを自分に問いかける時間を持つことなしには、本当に幸せを感じる恋愛が出来ないことは確実ではないでしょうか?

メールでの遣り取りは、ややもすれば安易なものになりがちですから、逆に、恋愛のアプローチの場合では、その安易さの中に隠された誠実な思いや恋に恋しているエゴなどを見分ける第一次選考の役割は充分果たしてしまいます。

携帯は、便利なツールだけれど、いや、便利なツールだからこそ、それを使う人間が見えてくるのも確かなこと。
それが見えないのなら、あなたも自分のエゴともう一度向き合ったほうが賢明だと思うのです。

確かに、世に出ている恋愛術ノウハウには、正鵠を射ている部分が多いのは事実でしょう。
しかし、手法だけを真似ても、あなた自身が変わることはありません。
お互いが変わることなく人として成長することができなければ、持続的な愛として実を結ぶこともありません。

恋愛術ノウハウから、逆に、その意味するところをじっくり考えるのも道ですが、少なくとも、恋愛論の一つや二つも読まずして、ノウハウだけを機械的に使っていても、所詮化けの皮が剥がれ、自分の恋愛を豊かに育てることなど出来ないのではないかと思うのです。