退屈なバラ~アラン『幸福論』第88プロポ『詩人たち』
退屈なバラは見たことがないが、退屈な人を見る機会は事欠かない
おおよそ退屈なバラを僕は見たことがない。
しかし退屈な人を見る機会は事欠かない。
彼らは色違いのバラを批判し武器を持ちたがる。
美しい人は自由で柔和で武器など持たない。
ーアラン『幸福論』第88プロポ『詩人たち』私的要約-
ゲーテとシラーの間には美しい友情があったというお話からこの第88プロポは始まります。
人を益するわざというのはみな、それ自身美しい、また人間の顔を美しくするものだ。
美しい顔というのは人に不安を与えない。これは普遍的真理だ。そこから僕は、あえて考える、完全性の間にはどんな対立もないだろう、
衝突し合うのは不完全なものどうし、あるいは悪徳どうしではないか、と。恐怖心はそのことの顕著な例である。
したがって、人に考えを強いるやり方、暴君や臆病なものはいつもそのやり方をするが、それは常に御しがたい愚かさであり、狂気の温床である。
と、僕は思った。人に考えを強いるな、自由にさせてやりたまえ、怖がるのはやめたまえ。
自由な人間は柔和な者で、武器など持たない。
あなたの顔は柔和で美しい顔に映っているか?
アリストテレスは『幸福とは力のしるし』だと言っていたという。
だから、詩人や芸術家は、自分には何ができて何ができないかを幸福から告知されており、他人もこれと同様であることを心得ているのだとアランは語る。
そう、相違は美しいものだということを知っているのだ。
絵画より音楽が優れているかどうかであなたは論争していないだろうか?
もし、そんな心当たりがあるのであれば、あなたは自分の退屈さへの不満にまかせてそうしているのかもしれない。
きっと盲目的な機械的諸力に身を任せることに慣れ過ぎて、自分の天分というものを活かす術を奪われたまま行動していることへの不満の表現ではないのか?
そうなれば、そのことは自分の身の回りの人たちにも知らず知らずに同じことを要求していることになってしまう。
人を益する真逆のことをしてしまっているのかもしれない。
あなたの身の回りの人、例えばご主人や子どもさんやご両親は、あなたの顔を見て不安を感じていないだろうか?
身の回りの人に、あなたの顔は柔和なそして美しい顔に映っているのだろうか?
今夜あたり、こっそりと見極めてみられては如何だろう!
私たちのほとんどは詩人でもなければ芸術家でもない。
しかし、私たち自身の人生に対しては詩人であり芸術家になれるし、ならなければもったいないことではないのだろうか?
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