幸福は表現的なものである~伝染する「幸福」~

幸福は表現的なものである | 三木清の真意とは?

幸せの微笑み

幸せが叫ばれる時や幸せが祈られる時、たいていは「みんなが幸せに!」とか「万人に幸福を!」といったフレーズが常套句として謳われます。

その割には、個人から拡張された社会的な意味での『世界の幸福』は非常に偏った模様で描かれるのが現実のようですね。

「万人に幸福を!」と言うときには、社会制度の中にある幸福・不幸の物質的・環境的諸問題を避けては通れないのですが、ここでは、【幸福への断章 TOP】でも述べていますように、生存するための最低限の条件を満たしていることを前提として、個人の心理の中にある幸福・不幸について述べていくに止めたいと思います。


さて、三木清はかの有名な『人生論ノート』の中の『幸福について』において、次のように語ります。

幸福は表現的なものである。
鳥の歌ふが如くおのずから外へ現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である

三木清 『人生論ノート』

そして、

「人格は地の子らの最高の幸福である」というゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。

三木清 『人生論ノート』

と記しています。

『地上の子の最高の幸福は人格なれ』は、西東詩集「ズライカの書」にある言葉です。
誰の言葉なのかは、こんなページを読んでおられるあなたなら、書かれなくともお分かりだったことでしょう。

ゲーテの言葉には、よほどに疾風怒濤した人生だったこと、刹那刹那を思いのたけの思索と知恵で駆け抜けた生き様を彷彿とさせる深みのある言葉が多いと思うのです。

僕も、何らかの文章を書くときに、引用したい言葉として最も多く浮かび上がってくるのがヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの言葉たちです。

おそらく、唯物論者である僕には、宗教との接点において、その汎神論的な到達点が大いに共振するのかもしれません。

ドイツを語るとすれば、至高の教養人ゲーテと至高の哲学者ヘーゲルを想起すること無しには語れないのではないかと思うばかりです。

フランスの詩人ルイ・アラゴンの名詩である『ストラスブルグ大学の歌』をご紹介したページに、このストラスブルグ大学で学んだ偉人の一人にゲーテが居ることを少しだけご紹介しています。

ルイ・アラゴンの詩集『フランスの起床ラッパ』とともにフランスとドイツの教養をお楽しみいただければと思います。

人生論ノート | 幸福が心の余裕を、心の余裕が幸福を招く

人生論ノート

僕の高校生時代の愛読書の一つであった『人生論ノート』は、もう処分してしまったのか手元には残っていませんが、たまたま、亀井勝一郎を読み直すことがあった機会に目に止まった『幸福とは何か』の中にご紹介した言葉が題材として取り上げられていましたので、これを契機に書き留めておこうと思った次第です。

「表現的なもの」とは何か?


三木清は

機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福は常に外に現れる。
歌わぬ詩人というものは真の詩人でないが如く、単に内面的であるような幸福は真の幸福ではないであろう

三木清 『人生論ノート』

と、極めてシンプルな説明をしています。

実に簡単なことですね。
一言で言えば、『笑いなさい』ということになりそうです。

いやいや、本当は「幸せであれば日常の仕草や態度に現れる」ということですから、間違った解説と思われたかもしれませんが、幸せを求める側への処方箋という目線から見れば、逆に『笑いなさい』から始めてみようということしか導き出せないのではないでしょうか?

それに、身だしなみに気をつけることも、些細なことながら人を幸せにする重要な要素と言えそうです。

何故なら、これらの仕草や態度や気持ちはすべて「心の余裕」を伴うものですから…。

もっと言えば、例えばアランの『幸福論』の冒頭第1断章『名馬ブケファラス』で述べられているように、【不機嫌な人が居れば、その不機嫌に付き合わずに、ただ椅子を出してあげたまえ】です。

不機嫌な人にも寛大で親切に接することだけで、お互いが幸福な気持ちになれるというわけです。

その理由は、第84断章『楽しませること』に登場します。
不機嫌な人は、その親切を受けて、自分が不機嫌であったことが恥ずかしくなるからです。

『ちょっと押されたくらいなら、まず笑ってすますものと決めておきたまえ』
と、アランは言うのです。

僕たちに実際に縁のある一般社会での「つながり」の中だけでなく、最も身近で大切な「つながり」である家族の中においてはなおさら、理由のハッキリしない不機嫌さは周囲の人間を不快にするものです。

反対に、機嫌の良さや親切・温かな心遣いは周囲の人間にとっても心地よく、幸せな気分にさせます。

ただ、機嫌・不機嫌は感情の表象ですから、感情を素のまま放置していては「機嫌よくいること」や「機嫌の悪い人にさえ機嫌よく接する」などという態度は示せないですね。

ということは、言葉として耳にすれば当たり前と思えるような生活態度も身につけようとしなければつけられないものであるということになります。

今から約50年も前ですら、亀井勝一郎氏は、

『誰もが焦りいらだって、お互いに不機嫌に暮らしているのが現代ではなかろうか?』

と問うています。

2013年の今は、はたしてどうなのでしょうか?
もし、やっぱり不機嫌に暮らしているとすれば何故なのでしょうか?

この辺りは、後続のプロポに委ねたいと思いますが、結論としては亀井氏がいみじくも書かれているように、『幸福は幸福として未来に求めてはならないものだ』という一言で説明がつくのではないでしょうか?

その具体例は、B.ラッセルの『幸福論』第一部『不幸の原因』を読むと、僕たちの『幸福』を阻害している理由としてことごとく浮かび上がって来ます。

さて、三木清の言葉は、「自分の幸福とは必ず他者に表現できるものではならないのであって、自分ひとりでほくそえむだけで留めておけるものではない。」という意味合いだけで捉えてしまえば、例えば、大いにお金儲けをしてそれを自慢げに他者にご披露するといったことまで含まれてしまいます。

この形での表現がされた場合は、決して周りの人間に快い気分を抱かせるものではないですね。

そこで、『他の人を幸福にするものが真の幸福』という三木流補足と、ゲーテの『地上の子の最高の幸福は人格なれ』をもって、『幸福』の定義をしておかねばならないということなのだと僕は解釈します。

本サイトでこれから重ねていくプロポは、その全てが、この『人格』という概念に収斂していくためのTipsとなるでしょう。

何故、幸福は表現的なものでなければならないのか?

ここまでに記したアランの例でも、実に明快な答えになり得ると思うのですが、より以上に、その根拠を添えたが故により鮮明な答えを与えてくれる最近の話題があります。

それは、ハーバード大学でマイケル・サンデル教授と並んで人気のあるニコラス・クリスタキス教授が発表した【肥満も幸福も伝染する】という理論です。

“Connetion”と題して出版され、日本では『つながり』と訳されて出版されています。

つながり 社会的ネットワークの驚くべき力

つながり 社会的ネットワークの驚くべき力

僕は、インターネットにおけるSNS(ソーシャルネットワーク)なる「つながり」はあまり過大評価しないのですが、それは、良くも悪くも「つながり」であるということによります。

即ち、各個人は迎合的に行動するのか主体的に行動するのか、ネットワークがどのようなムラ社会的構造を持っているか、どのような人がオピニオンリーダーとなっているかなどによって「つながり」は全く異なる様相を呈し、何がどのように伝染していくのかが規定されていくと考えるからです。

例えば、深刻な【いじめ】の問題にしても、ムラ社会の個人への攻撃と捉えることができると考えています。

日常的な「シカト」や暴力が、ムラ社会での常識として構成する誰もに依存的に伝染していると考えることができます。

このような構造を持った「つながり」でも、もちろん幸福は伝染していくでしょう。
それはそれは素晴らしいことです。

しかし、一変して負の伝染が発生したときには、良い意味で使われることはない『群集心理』となって、異様な醜い姿を現す可能性があります。

現実社会にしろネット社会にしろ、「つながり」はいつもそういった危惧と抱き合わせで存在するでしょう。

ですから、先ほどのゲーテの定義を導入しなければならず、それによって初めて『真の幸福』が伝染する「つながり」の基盤が確立されると考えた方がよいと僕は考えています。

自分の家族という「つながり」においても、その他における自分に縁のあるムラ社会の「つながり」においても、相手の不機嫌に不機嫌をもって対抗しないということになると、それなりの鍛錬が必要となります。

自然発生的な感情に身を任せるのではなく、理性によって感情を作るという鍛錬ということになるでしょう。

アランは、これを『いつだって、ためらうことなく、微笑んで、礼儀正しく思いやりのある態度をみせること』=『礼儀作法』と呼んでいます。

そして、最後にこう締めくくります。

『いわゆる礼儀正しい社交界の中で、僕は腰の低い人はたくさん見たが、本当に礼儀正しい人間には今まで一人も出会ったことがない』

感情を作る鍛錬、礼儀作法を身につける訓練こそが、自分の身の回りの世界はもちろんのこと、より広い『万人の幸福を!』を伝染させ、実現する可能性を拡いてくれる第一歩ではないでしょうか?