ルイ・アラゴンの言葉に寄せて

ルイ・アラゴン 教えるとは、未来を共に語ること

フランスの詩人 ルイ・アラゴンの名言 教えるとは 希望を語ること 学ぶとは 誠実を胸にきざむこと

教えるとは、未来を共に語ること

学ぶとは、真実(まこと)を胸に刻むこと

フランスの詩人 ルイ・アラゴン -ストラスブール大学のうた-[※1]

私は、翻訳者 大島 博光先生とは少し違った意訳(原文からではなく文脈上から)をしていますが、子育てと学習指導において、ルイ・アラゴンの言葉ほど的確な羅針盤を与えてくれる言葉は他には目にしたことがありません。

※注記[1]

「教えるとは 未来を共に語ること」は、大学入学早々に私が最初に耳にしたフレーズであり、比較的広く世間一般に使われているフレーズなのですが、本詩を翻訳された大島 博光氏の訳では画像にありますように「教えるとは 希望を語ること」です。

私が原文を読んで意訳したものではありませんが、こちらが私の思いにはよりフィットしますし、訳詩の流れからも解釈として問題はないと考え使っていますことをお断わり申し上げておきます。

また、「真実」に関しては、後述しますように、完全に私独自の解釈であり誰も使っていませんが 、訳詩の流れからも解釈として成立すると判断して使っておりますことも併せてお断わりしておきます。

従いまして、私の記したフレーズが訳詩として一人歩きしないように、そのままの子引き・孫引きでの引用はされないようにお願いします。
ネットでは、多くの言葉が間違って一人歩きしている例が多いですので念のため・・・。

ルイ・アラゴンの「ストラスブール大学のうた」は、フランスの起床ラッパに収録されています。

※参考

大島 博光 氏の訳詩からも分かるように、風光明媚なアルザスに存するストラスブール大学(University of Strasbourg)は非常に歴史のあるフランス有数の大学です。

ゲーテやシュバイツァーや最近では2011年のノーベル医学生理学賞のジュール・ホフマン教授などを輩出し、ノーベル賞受賞者も特に化学分野で多いようです。

ゲーテも、このストラスブール時代(僅か1年ばかり)でのヘルダーとの出会いをなくしては、ドイツのドイツたらんことを目指したシュトゥルム・ウント・ドラング(Sturm und Drang=疾風怒濤運動)の中心的作家になることはなかったでしょう。

現在のARWU2012世界大学ランキングでは101-150位ランク、特に化学分野では世界17位、フランスの大学では3指に入る大学のようです。
(ちなみに、日本では北大・東北大・東京工業大が総合で101-150位ランク、化学分野では京大9位、東大11位)

但し、フランスの高等教育は他国のように単一ではなく、極めて少数の専門的エリート養成を目的とするグランゼコールと大学が並存しているために、大学ランキングではあまり脚光を浴びないという事情がありますね。

その証拠に、フランスでのランキングトップはグランゼコールの高等師範学校(Ecole Normale Superieure)でした。

ついでに、日本の大学のポジションも調べてみました。
ご興味があられましたらどうぞ!

本来は、上記リンク先の「帝都大学へのビジョン」でのコンテンツとしたかったのですが、子育てに頑張られる母親に最も相応しい箴言だという思いがあり、こちらのサイトをメインにしています。

親の子育てと子どもを指導する教育者(塾の講師や個人指導の指導者も含めて)が持つべき核心に共通し、子どもを健全に育てるためのすべてが網羅されたシンプルな一言ですが、保護者さんはともかく、この言葉を全く知らないような指導者が、学校の教師であったり塾の講師であったりすることに違和感を覚え、一体何を学んできたのかという思いで発信している気持ちが底流にあります。

子育てに正解などありませんが、不正解な子育てだけはあります。
そして、それを戒めるすべての言葉が、このフレーズには含まれていることは、私の指導歴からも100%断言できます。

私も学生時代に、ことあるごとに使っていた言葉です。
「未来を共に語ること」の部分は少し変形バージョンですが、一般的に使われているようです。
「理工系の学生が何故?」と不思議に思われるかもしれませんが、実は、私は教育系の問題や活動にも携っていたからです。

教育関係の仕事に携わっていて知らなければモグリと思われても仕方のないほど有名な言葉。
ですからでしょうか、本ページは非常にアクセスの多いページとなっています。

2012年6月1日、「ストラスブール大学の詩」で検索しての訪問者様よりメールをいただきました。
差し障りの無いない範囲だけご紹介させていただきます。

・・・前略・・・

もう「・・・!」と言われましたが、「教えるとは、ともに希望を語ること、学ぶとは、誠実を胸に刻むこと」(ストラスブール大学の詩)とは、程遠いことしか出来ていません。

でも、私にとって、幸せな日々であることは、確かなのです。
子育てを家族で語り、我が家は我が家の掟がある・・・大賛成です。

30を過ぎた娘息子は、「テレビゲーム漬けにしなかったことだけは」唯一親に感謝する」と。
買わないので、実家に行った夏休みぐらいしかできなかたのです。
「ゲーム脳」にならずに済んだと。唯一ですよ。
まあ一つでも感謝されることがあればいっか!と。

訪問者様よりのメール

ルイ・アラゴンの名言とはいえ「真実」に裏打ちされた「誠実」でないと…

さて、大島 博光 氏は「まこと」は「誠実」と訳されていますが、私は「真実」との解釈が合理的だと考えています。何故なら、「誠実」に頼っているだけでは埒が明かないとの思いが染み付いているからです。

「誠実」は今や演じれる時代だと感じられませんでしょうか?
「私は良い人」を演じ、「誠実」を演じることでしか経済も政治も思いのままにならないことを狡猾な人々は気がついてしまった気がしてならないのです。

「真実」に基づいて行動し、論理的に物事を処理することに対しての保証がないことには、「誠実」は非常に不安定な存在にまで変質してしまったと感じるからです。

ところで、昨今、コーチングという言葉が流行っていますけれども、単に「技術」・「テクニカル」が大切などと勘違いしては、子どもに届く言葉は話せません。

そして、自らは人として伸びる姿勢を放棄した大人の一方的信念では、その言葉は、決して受け入れられるものではないと思いますね。

「ブレる大人=信用できない大人」
それは、子どもの目だけに映るものではないのだと思うのです。

君たちはどう生きるか

君たちはどう生きるか

もしも、テクニックではなく、心から真に子どもと向き合うことの必要性を感じておられるようでしたら、まずご自身が、左に挙げました吉野源三郎氏の「君たちはどう生きるか」を読まれ、もしお子さんが中高生なら、子どもさんが読まれるように仕向けられることをおすすめします。

実は、我が家では、10年ほど前、子どもが中学生になった後に、家内がそれとなく子どもたちにあてがっていた書物です。

もちろん、そのときに私も読み、「こいつは、なかなか良い書物を与えよるわいな!」と感心したものです。
それだけの価値がある本でした。

「私が若い頃に、こんな本はあったのだろうか?」
「何故読まなかったのだろうか?」

と思うことしきり。

余談

この本に関しては、最近「漫画版」が出版されて、「2018年一番売れた本」というようなキャッチ・コピーが見られます。

しかし、レビューを見る限り、原作を読んだ方には何とも薄っぺらい内容との酷評も多くみられますし、原作を読まずに「くだらねぇ」と評価する方も多いようです。

マンガにするのもいいのですが、原作の深さを出来る限り伝えるものでないと、原作者の名前をすら貶めてしまいます。
他人のふんどし狙いの3流人が出版できる時代なのでしょうね。

大変古い戦前の著作でありながら、自分が知らなかったことを恥じ入りましたが、どうやら、1982年に復刻初版のようですから、私の中高時代にはなかったのかもしれません。

仕方がないのかと思いながらも、丸山真男氏は読んでいたのに、吉野源三郎の名前さえ知らなかったことが悔しい。

古い著作でありながら、現代ほど、いや、これからますます、吉野源三郎こそが多く現れないと人間が危ないと思えるのです。

それほど、この書は名著中の名著だと確言できます。
コペル君という中学生とそのおじさんの書簡形式が挿入され、日常の出来事からコペル君が考えたことや悩んだこととして書かれていますので、実に平易に読めます。

なのに、堅い言葉を散りばめたどんな示唆深い著作よりも深い味わいと深い本質があります。

私は、特にある部分が現代社会の病巣の本質を突いていることで感心をしたことは別ページに書きたいと思っているのですが、社会を形成する一人の人間であるために絶対に認識しておかなければならないことが実に説教臭くなく説かれているのです。

この書籍と接するか接さないかで、人の格が決まると言っても過言ではないと私は思います。

そして、まさに、ルイ・アラゴンの言葉を生き生きと息づかせる書籍だと感じたのです。

教えるとは、未来を共に語ること

学ぶとは、真実(まこと)を胸に刻むこと

ルイ・アラゴンの言葉が常に頭にあった私たちの子育て 徒然草

眉剃り騒動:2000.12.09著

つい一昨日、我が中二の娘が自分で眉を剃っていた。
髪の毛も流行のカットやら風に梳いていた。
睫毛も学校でカールさせていた。

妻がカンカンになって怒った。
「高校なんぞ行かなくてもよろしい。大好きなバレエもやめてもらいます。」
一昨日は私も深夜の帰宅となった為、昨夜に、しょげ返って泣きじゃくる娘と1対1で話し合った。

よそが許していることでも、我が家では許さない。
これが、我が家の方針です。

じっくりと話を聞くとほとんどの子が眉を剃っているらしい。
その上から描くことはさすがにないのだそうだけれども・・。

今の貴方たちにとって、”時間”が今一番大切なはずです。
勉強だけではなく、自分自身を育てるための時間が与えられています。
そのために時間を有効に使うことは、権利を与えられた人間の義務として当然のことなのですよ。

浅はかで薄っぺらい”もの”や”格好”にうつつを抜かして、それで貴方が本当に心から”生まれてよかった”と思う時が来ると信じることができますか。
与えられた責任をそれで果たせますか。

そんなことにしか時間を使う方法を知らない周りの友達も本当に可哀想に思います。

他の家庭では怒られないのかもしれません。
しかし、貧乏ですが我が家は”人”としての”品格”を最も重んじています。
それが我が家の教育方針です。

快楽は本当の歓びには決してなりません。その瞬間だけのものです。
しかし、貴方が苦しい思いで身に付けたこととその歓びは消えることはありません。
貴方の血となり貴方の財産となるのです。

一歩の小さな後退は必ず例外なく百歩の後退に繋がります。
牛歩の歩みでもかけがえの無い財産を築いて行く人と、一歩の後退で財産どころか百歩の後退をする人の差を想像してごらんなさい。

このような時代でも必ず、貴方の周りには確実に自分を育て上げている人がいるのです。

将来、そういう人を見て、自分がヌクヌクと過ごしてきたことを棚に上げ、妬んだり批判するような見苦しい人にだけはならないでください。

従って、貴方の大切な未来の為に、ふしだらさの第一歩を認めることは我が家では断じて許すことは出来ません。

これが、私が娘に正座をさせて語りかけたおおよその主旨です。

ほとんどの子が持ってるゲームやらおもちゃやら、オシャレな小道具やらも全然欲しがらなかった子どもたち。

テレビも親の許可しているものしか見せなかったので、子供同士の付き合いの面では、内心非常に心配していましたから、今回の出来事で親としては、逆にホッとした面がありました。

だからですね、本当は子どもとしての「うそ」はたくさんありましたよね。
ばれなかった以外にも・・。
お母さんは気づかなかったかもしれませんが、お父さんはある程度は気が付いていましたよ。

自分の後ろめたさに耐えることがとても辛いことだと分かったとき、君たちは自然にそのことと無縁になっていくと信じていたから、ただ知らぬ顔で見つめていたことも沢山あります。

携帯電話不許可の顛末:2006年付記

娘には、大学に入って初めて携帯電話を与えた。
まだ高校生である息子には当然与えていない。
持っていない子などは皆無らしいが・・・。

ゲーム・携帯を与えなかった娘も、その当時ですら不自由そうにすることもなく、今でも友達やバイト先に奪い合いをされるような毎日を送っている。

携帯を持った今は、止むことがないように思える携帯メールもほとんどがReするのみで自分から発信する必要性も暇もないようである。

「携帯を持っていないと友達も出来ない」などということは全くない。
そんなことで仲間外れにするような友達なら、最初から友達と思う必要もない。
毅然としていれば、自然に友達は集まるのです。

この子たちは、自らが親になっても、子どもに、やみくもには携帯を与えることはしないだろう。

何かを与えるには、相応しい旬の時期がある。
何かを与えるには、そのための土台が要る。


2011年付記

娘の社交ぶりは、私から見れば、今や驚くべきレベルです。
その娘が、あるとき、高校まで携帯を持たして貰えなかったことを良かったと言いました。

「あの時、もし携帯を許可されていたら、おそらく今の自分はなかったと思うよ。
きっと、携帯に溺れて無駄な時間を使いっぱなしだっただろうね。」

私は決して私たち夫婦が毅然としていただけの理由ではないことも知っています。
そこには、携帯を持ってはいても、決して携帯に依存しない友達たちが確実に居てくれたことがあって、初めて成立し得たということを・・・。

彼女は修士号を取り、一応社会に出ました。
確かに、私とよく似て、覚えることが嫌いで考えることに長けていますが、それでも私は、こんな程度で修士を与えてもらえる日本の文系教育レベルも少し疑問には感じるのです。

いや、そんなことはいいとしても、娘の修士論文のフィールドデータを見て愕然としました。
「学力低下」が叫ばれて久しく、それに異論を唱える方も居られたり捉えかたは様々なのですが、私には、危惧すべき惨憺たる状況は明白ではないかと思えましたね。

おそらく、携帯依存・ゲーム依存はその最たる原因ではないかとしみじみ感じてしまいます。
大人たちは、子ども達の未来を今現在の辻褄を合わせるための換金をしているとしか私には見えません。

いや、「未来をともに語る」気なんかサラサラなく、心地よい言葉で釣って、自分の子どもではない他人の子どもたちは骨抜きに育てることで、今の自分の辻褄を合わせ、加えて将来に繋がる利潤の標的にしようとしていると分析する以上に理解は出来ません。

これが大人社会の「誠実」「大人になるということ」という回路に繋がっているとすればなんと悲しいことではありませんか?