いのちか原発か~中嶌哲演vs小出裕章~

-2013年8月7日著-

いのちか原発か~中嶌哲演vs小出裕章~

001でご紹介した小浜明通寺の中嶌哲演住職と003でご紹介した京大原子炉実験所の小出裕章助教のお二人が、2011年3月11日の東日本大震災以降、共著で本を出されています。

小出裕章助教と佐高信氏の共著の感想をも含め、日本の良心を発信する情報を一つでも多くしていかなければ、本当にカタストロフィーを食い止められないと考え、ここに本サイトの空白を埋めていこうと考えました。

福島原発の事故で少なくとも「脱原発」に向かって行くだろうと大きな期待を抱いたのですが、為政者たちは期待をするほどのコモンセンスすら持ち合わせていませんでした。

恥ずかしげもなく「それでも原発は止めない」方向に持っていくことが確実に見えて来たのです。

本当に、人の心を持ち合わせていないとすら思える恐ろしい為政者たちとそれに群がる一群。
随分昔から、僕には、為政者たちが背広を着て心にもない気色の悪い微少を浮かべながら狡猾に詐欺を繰り返すゴロツキ集団にしか見えません。

ある意味、とっくにこの国の政府にというか人間自体に絶望していました。
何をもって挑んでも遺伝子のなせる仕業を変えようがないのではないかとすら思いました。

おそらく、ここでご紹介する3人の著者も心底での絶望を何度も体験して来られたと思うのですが、だからと言って一縷の望みさえ無くせば、本当にカタストロフィーなどあっという間にやって来るのだという憂慮の心が踏ん張らせてきたのだと思わずにはいられません。

まず、中嶌哲演住職と小出裕章助教の共著『いのちか原発か』のamazonレビューを一つご紹介しますが、中嶌哲演住職の体験談からも、推進派の非人道的な所業の数々が浮かび上がります。

中嶌哲演住職とは、友人の結婚披露宴で同席させていただいただけに留まっていますが、決して策士ではないこと、真に思ったことしか語らない御仁であることはお顔からだけでも分かります。
このあたりは、下記のページで書かせていただいておりますので、よろしければご一読ください。

原発反対を唱える者に対して、推進派による不当な圧力はすさまじい。
「ちょっと批判的な言動が見られると、公務員ならば人事報復、お店や民宿をやっている人には、客を寄せ付けなくして人々を震え上がらせてものを言えなくしてきた」
読んでいて犯罪と推進が同義語とさえ思えてくる。

心のある人がそのような現実を前にすれば、原子力がいかに人間を壊してきたかが見えてくるはずだ。
命を重んじる人ならばその時点で推進など有りえないではないか。
過去何十年かの間、私たちは原発の裏に潜んでいたこうした問題を知らされること無く、ときに無視してきたがために今、取り返しのつかない悲劇に見舞われている。
(ここで学ばなければもう救いようがないと思う)

出典:『いのちか原発か』AMAZONレビュー

僕が、本著『いのちか原発か』から、重みを付して伝え切りたいことに、最後にご紹介する小出裕章助教と佐高信氏の共著『原発と日本人 自分を売らない思想』のレビューでもコメントされていることが一つあります。
『いのちか原発か』『原発と日本人 自分を売らない思想』は、本質的な部分においてオーバーラップする表現が多く出てきます。)

それは、福島第一原発事故によって、推進してきた自民党の人間や「原子力村」の人間の誰一人として責任を取っていないということです。

下々の一般社会ならこんなこと当の政府は絶対にが許しておかないですよね。
自分と仲間たちだけには業務上の過失は適用しないかのようです。
自分と身内には甘い性根、自分は実務に携わらないチキンホークの性根が丸見えです。

我が身のことになると、うまいこと法律をいじって責任をウヤムヤにします。
その事務処理能力は天才的とさえ言えます。
小出先生は、全員刑事罰を受け刑務所に入るべきと考えられていますが、僕も全くの同感です。

これに付随して、中嶌住職は戦後の状況と3.11以降の植民地化される福島の状況が相似形を呈していることを指摘されます。

そして、ご両人とも戦争責任が曖昧にされたまま進んできた歴史が、まさに原発に見切りを付けることができない精神構造となって繰り返されていると危惧を抱かれています。

折りしも浮上している憲法問題・戦争問題と原発問題はその根が同じなんだということを私たちは深く省察しなければならないと思います。

為政者の責任を何度曖昧にされても、それを仕方ないことと諦めるクセを付けてしまえば、当然の如く、自分に関係のないことへの鈍感と無関心が完成されてしまうのではないでしょうか?

そして、その腹いせにせっせと何らかのゲームで興奮することに人生の充実を見出そうとする自利的な姿がダブってきます。

これに関連して、もう一つ見逃してはならないと僕が思ったのは、中嶌住職が小出先生の『少欲知足のすすめ』に感動されたというお話です。

パッと見ると、主語が逆ではないかという気がされると思いますが間違ってはいないのです。
自然科学を真摯に追究していけば、普通はこの謙虚な境地にならざるを得ないのではないでしょうか?

この『少欲知足』は、最後に同じく仏教の『自利』『他利』と絡めながら、お二人で語り合われます。

おそらく、それぞれの人の中で『少欲知足』のなかにこそ『人類共生』の唯一の道が開けるという哲学の確立こそが待ったなしの課題となっている時代ではないかと僕も思っています。

原発と日本人 自分を売らない思想

僕は、ここで、B.ラッセルの「退屈に耐える力をある程度持することが若い人に教えるべき事柄である」という言葉を迷わず想起しました。

実に、興奮を求めてやまない心が世の人々をゲームに駆り立て、戦争に駆り立てる源ではないかと思えるからです。

この退屈に耐える力がない限り、いくら論理で論争しても論理を欲望で捻じ曲げる不毛の論議しか行われないのではないか? そう思えるのです。

では、小出裕章助教と佐高信氏の共著『原発と日本人 自分を売らない思想』もご紹介しておきましょう。

ここでは、amazonのレビューと小出先生の青山学院での講演会での講演前に、落合恵子さん(懐かしい!レモンちゃん)が朗読した岡部伊都子さんの詩をご紹介しておくに留めます。

東日本大震災、福島第一原発事故からもうすぐ2年、「原子力村」の人間は誰ひとりとして責任をとってないし原子力村事体も無傷であり、再稼働容認の道を進もうとしてる。
本書にあるように原子力委員会の16人は謝罪というのは責任を取ること、責任を取って刑務所にいくのが相当であるというお二人の意見には同感である。

出典:『原発と日本人 自分を売らない思想』AMAZONレビュー

「売ったらあかん」 岡部伊都子
画像クリックで拡大

「売ったらあかん」 岡部伊都子

友達を 売ったらあかん
子どもらを 売ったらあかん
まごころを 売ったらあかん
本心を 売ったらあかん
情愛を 売ったらあかん
信仰を 売ったらあかん
教育を 売ったらあかん
学問を 売ったらあかん
秘密を 売ったらあかん
こころざしを 売ったらあかん
大自然を 売ったらあかん
いのちを 売ったらあかん
自分を 売ったらあかん
自分を 売ったらあかん

思えば、小出先生と今中哲二先生が加わって”熊取六人衆”と呼ばれた京都大学原子炉実験所の学者たちは、ずっと原子力の危険性を内側から叫び続けてきました。

”熊取六人衆”は、若い小出先生や今中先生でも僕より4,5歳上の年齢で、ちょうど、僕が入学した頃は【伊方原発阻止】なる立て看がデカデカとありましたけれど、反原発については僕自身の中でも学生運動の中でもそれほどメインではなかったのは確かです。

それでも、その頃の様々な運動はお互いに勇気付けられる関係であれるほど、まだまだ草の根運動が盛んな最後の頃でした。
そして、その頃以降、”六人衆”は決してそれ以上増えることはなかったのです。

論理で考えれば矛盾することでも、それが金を生むとなれば論理など無視されるのが世の常になってしまいました。
論理は他の問題に摩り替えられることで無視され、さもなくば狡猾に強引に歪曲されたのです。

”熊取六人衆”にしろ小浜で原発誘致反対をリードされた中嶌哲演住職はじめ関連者や反対した方々は、相当な差別や嫌がらせを受けられました。

原発に限らず全てのシーンで、そういった策略が張り巡らせられましたから、社会全体に、損な役回りはゴメンという風潮が徹底的に出来上がってきてしまった感があります。

原発に限らず、良心的に闘おうとしている方たちには共通して、本当のところは絶望している本音が僕には感じられることが多いです。

でも、その誰もがそれでも絶望の中から希望を求めて小さな営みをされている。
こういうことを誰もが生き方として自分と対照し、模範にしていくことが必要なのではないでしょうか?

僕も基本的には完全に絶望している口ですが、それでも伝えなければならないことは伝えたいという思いまでは捨てていません。

とにかく、脳天気を装った為政者の実は冷酷な心を隠すためのアホ面微笑に反抗していくことを絶やしてしまえば、もう衆生の未来は断ち切られてしまうことでしょう。


刺繍プリントはがきテンプレート for 反核・反原発はこちら

関連記事

人気記事ランキング(通販・CAD以外)

当サイト情報・文化ページで大変アクセス数が多く閲覧時間が長い人気ページのご紹介です。

ページの先頭へ