コペル君の心の旅に気持ちがどんどんとのめり込んでいく名著

そして、その文句の言葉通りの意味なら、コペル君も、とうに知っていました。

もし、この文句を記して「右ノ句ノ意味ヲ説明セヨ」なんて問題が国語の試験で出たら、今までだって、立派に満点を取って見せることが出来たでしょう。

しかし、言葉だけの意味を知ることと、その言葉によって表されている真理をつかむこととは、別なことでした。

コペル君は、やっと最近になって、自分を振り返って見るということがどんなことか、それを少しずつ知り始めたのです。

君たちはどう生きるか

中高生へのおすすめ100冊にも必ず入る著作であり、中学生のコペル君が経験する出来事を日記風に綴った実に平易な文章で綴られています。

ここまで平易な文章で、これほどの含蓄の深さを持した著作を私は見たことがないような気がします。

私の下の子どもが中学に入って以降のある日、家内から、「子どもたちにこの本を読ませようと思うのだけれども、どうかな?」と1冊の本を手渡されました。

それが、吉野源三郎氏の「君たちはどう生きるか」との出会いでした。

私も、中高生から大学時代にかけて、人生を考えるための書籍は、それなりに読んだつもりでしたし、たとえ読んでいなくとも大概の著者名ぐらいは知っているはずだと思っていたのですが、このタイトルも吉野源三郎氏の名前も初めて耳にしたんですね。

きっと、最近の作家に違いないと思っていたら、何と巻末には、丸山真男氏の著者への回想録が記されていたのです。

丸山真男氏の著作は何冊か読んだこともあるのに、40歳を超えた歳になって、吉野源三郎なる名前は記憶にもないとはどういうことだろうと訝しく思ったものです。

人間生まれてきて知らない事の方がはるかに多くして死んでいくのかもしれないことを如実に表しているかのようです。

ある意味、ありふれて且つ直截的と思えるタイトル名と中学生に読ませられる本という予備認識から、「まぁ、子どもたちのためにはいいんじゃないのかな」といった程度の気持ちでした。

出だしは、最初の章タイトルの「変な経験」という言葉通り、少々風変わりな印象を受けつつ、「なーんだ小説なのか~」と思いながら読み始めたのです。
難しい言葉もなく読みやすい文章で、まさに中学生向けとしてちょうどいいのかなと感じていました。

しかし、さらに章を進めていくと、ジワジワと深みが増して来ます。
内容が難しくなったのかと言えば、決してそういうことではなく、文章は淡々と同じように読みやすい調子で続いていくんですが、気持ちがどんどんとのめり込んでいくのですね。

日々の出来事やそこでコペル君が考えたことが日記のように綴られる中に、実に深い命題が埋め込まれていることを感じ始めます。

これを感じ、どんどんのめり込んでいくのは、私のような大人の場合は、既に過去に接した書籍や社会科学理論と関連付けることができるからかもしれません。

すなわち、実は、学者や知識人が専門書で紐解いている命題そのものが核にあるということです。

言わば、子どもにとっては、大人が方程式で解く問題を、子どもが××算として教えられるようなものだと言えばいいでしょうか。

大人になって読み返すと、「このときは、このことを読んでいたのか」と感慨深く思い返すといった代物になるのだと思います。

そういった意味で、読み返す度に新しい味わいが出て来る名著です。

勇気、友情、貧乏、誇り、裏切り・・・若き日の彷徨い

勇気、友情、貧乏、誇り、裏切り・・・。

そういった「にんげん」に通じる深い深い命題を、どこにでもある日常の出来事を通して、中学生が理解できるレベルの至って平易な文章に還元して、しかも全く説教臭くなく、ここまで表現した著作は今までに例を見ない思いがします。

「目からウロコ」とは、本書を一読する中で感じることを表現するためにあるのかもしれないと思うほどでしたね。
そのことはアマゾンのレビューを確認されてもお分かりいただけると思います。
70件以上あるレビューのほとんどが★★★★★という驚異的な感銘を与えているのです。

一人の人間が育つにあたって最低限認識しておかねばならないことを、主義・主張・イデオロギーを超克して、実にフランクに語りかけているのが本書の特徴です。

我が子を育てるにあたって、例えば、人を傷つけてはならないとか人のものを盗んではならないとか、そういう当然のモラルを教えることですら押し付けであると考えるような認識の持ち主には、本書のような極めてフランクなメッセージにさえ不満を覚えるのかもしれませんが・・・。

生きる上での社会としての本質をえぐる「生産関係」

さて、私は、「ルイ・アラゴンの言葉に寄せて」 において、現代社会の病巣の本質を突いているある部分について別ページで書きたいと記していました。

その「ある部分」とは、本著作では、おじさんがコペル君に教える「生産関係」という言葉で表現されている言葉なんですね。
この「生産関係」に関する認識や課題が、本書では一貫した軸として流れています。

生み出してゆく人は、それを受け取る人々より、はるかに肝心な人なんだ。



君たちは目下消費専門家なんだから、その分際だけは守らなくてはならない。

生み出してゆく人は、それを受け取る人々より、はるかに肝心な人なんだ

この引用文は、多分ほとんど引用される部分ではないかもしれませんが、この「生産関係」に関連しての認識の核となる言葉だと私は考えています。

「生産関係」と言うと、それだけで反発を感じる人も居られるのかもしれません。

しかし、中学生コペル君自身が「人間分子の関係 網目の法則」を発見したように、現実に自分自身が存在し得ている根拠に思いを馳せるだけで、この関係性が私たちの命綱であることは自明の理として認識されるのではないでしょうか?

素直に見つめれば分別できるはずのことが、日常生活では意識されない。
その関連性で繋がっているはずの個々の人間分子が、あたかも独立に自身だけの力で動けているかのように勘違いし、トマス・ホッブズの「万人の万人に対する闘争」が如き動きをしてしまう。

そして、「人間分子の関係 網目の法則」の中でより良い関係性を築くために、どのように分子運動を統一していくのかという、まさに、時代を超えて多くの知性が悩んできた課題が、この著作に流れるモチーフと私は捉えています。

現代社会において、私たちの未来のありよう、いや未来の存在自体の有無を左右する大きな問題点が、この二つの言葉にみごとに網羅されていると感じているわけです。

特に、見知らぬ第三者との繋がりを求めながら、反って孤独を深めているケースも多々見られるネット社会においては、それぞれの個人個人が自分の力で超克していかなければならない重要な問題だと思うのです。

何のために勉強なんてするの?・・・「答は無い」なんて、ありきたりのいい格好をする大人たち

ここまでは大人が読んだ目でご紹介しましたが、中学生や高校生から見た本書の位置づけを考えてみたいと思います。

よく、中学生や高校生が、「何のために勉強なんてするの?」とか「勉強って社会に出て役に立つの?」なんて質問や愚痴を目にし耳にします。

でも、その多くは、勉強が嫌だったり成績が上がらなかったりする現実の個人的な現状そのものを合理化するための質問や愚痴であって、実際は質問する割には何も考えていないというケースが多いと感じるのです。

何も行動しなければ、何も考えなければ、その答えなど出せるはずもありません。
中学生や高校生だから考えなくてもいい問題ではなく、むしろ、この時期に勉強をすることの意味や生きることの意味を考えずして、何をすることがあるでしょうか?

もし、「何のために勉強なんてするの?」というような問いを発すれば、多くは「答えはないんです。君自身が考えなさい!」というありきたりな回答を貰うことになるでしょう。

しかし、この書には、はっきりと「何のために勉強なんてするの?」に対する答えが、おじさんによって明確に提示されます。
私は、この明確な答えをすることこそが重要だと考えています。

何故なら、そこには「何故、人を傷つけてはいけないのか?」に対する答えと同じ重みのある、人間の人間たることの基本原理の認識が含まれているからです。

その認識を提示することもなく、いきなり、「あなたの自由でしょ!」と曖昧にして来たところに、現代の主たる悩ましき問題の元凶があることは間違いがないと思うわけです。

だから、やるべきことよりやりたいことが日の目を見る無節操な社会になってしまったとも言えそうです。

「人を傷つける、傷つけない」ことに自由であっていいはずがありません。

曖昧に、君自身の個性に属することだからと任せきりにするだけでは不十分なんですね。
これは、一生に渡って、冒頭の引用における「分際を守る」という部分と関わってくることは想像するにやぶさかではありません。

科学的、論理的に考えるということ~丸山真男氏の回想

さて、観点がコロっと変わりますが、数学や物理が苦手な人には、やはり「目からウロコ」の説明だと感じるであろう著述部分があります。

理系の私などは日常的な考えるプロセスでもあり、ましてや教え子たちを指導する時にはよく使う表現ですから、当たり前に感じてしまうのですが、そうでない方には、科学的、論理的に考えるということのプロセスが、意外に誰でも着眼するようなところにあるんだなということに感動していただくことが出来る部分かもしれません。

丸山真男氏も最後に付された回想で、このことを次のように語っています。

つぎつぎと想像をすすめていくというように「お話」をいいかえてみると、「天才」のアイディアは、にわかに私たち凡人にとっても身近な思考の仕方の問題へと相貌を変じます。

要するに、吉野源三郎氏には自然科学を子どもを指導する骨法も分かっておられたということであり、ダジャレ頼みの指導しかできない現代の指導者へのアンチテーゼとしての価値もあるかと思われます。

つまらないと思っている勉強も、こういう風に考えると、実に面白く身近に感じることができるよということを感じるだけでも、勉強に対する姿勢や取り組み方を変えてくれる契機になるかもしれません。

「帝都大学へのビジョン」のオプション資料群の狙いも全く同じところにあります。
だからこそ、行き詰った時の理解に読まれた購入者さんに「この資料は神でした」と言っていただけたのだと思いますから、参考書でも分からない時にご利用ください。

さらに、最後に付されている丸山真男氏の『本書をめぐる回想』がまた素晴らしい!!

人生如何に生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会科学的な認識の問題とは切り離せないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。


時代を反映しながら時代を超えた意味を持つところに、総じて「古典」と呼ばれるものの共通した性格があるとすれば、この作品を少年用図書の「古典」と呼んでもすこしも言い過ぎではないように思われます。

ともかくも、名著中の名著として、是非、お子さんはもとより大人の皆さんも一読されんことをお勧めしたいと思います。

丸山真男氏が「時代を超えた意味を持つ」と言われる以上に、このネット社会になった現代こそ、社会に生きる人間として大切なものを失わないためにも、より読まなければならない書だと私は思います。

また、読解力を課題とする生徒さんも、難しい評論を読まれる前に、誰でもが難なく読めるいたって平易な文章の本著を読まれれば、意外なほどに読解力が上達しているかもしれないと思いますよ。

「帝都大学へのビジョン」本編 6時間目の国語関連の項目では、今でも現代文の教科書に燦然と輝く丸山真男氏の文章を、ユニークな現代文と英語の融合問題として、勉強法を理解していただく一つの素材として記述しています。


これだけ言えば、もう君には、勉強の必要はお説教せずとも想像してもらえるのではないでしょうか?

-答えは、実際にこの本を読めば分かります。是非、その意味を噛み締められてください。-

君たちはどう生きるか