もんじゅとふげんと強いもの勝ちとリバタリアン

-2011年5月5日著-

さて、今日から、あなたが若い頃に作った刺繍の作品でページを飾ることにしましたよ。

刺繍001 女の子とワンちゃん

早いもので、あなたが逝ってから今日は四七日(よなのか)。
お変わりなく修行の旅に励まれているでしょうか?
今日は、普賢菩薩様にお会いする日ですが、どのような具合でしょうか?

そして、今日は子どもの日。
この日に相応しい、あなたの刺繍の名作を飾ってみましたね。

折りしも、床の間には、あなたが飾ったままの鯉のぼりの掛け軸とあなたが書いた兜の墨絵の色紙が飾ったままになっています。

季節ごとに小まめに掛け軸を掛け替えていたあなたが、この掛け軸を掛けたのは昨年だったのでしょうか?それとも一昨年だったのでしょうか?
歳だからとばかり思っていたのは、実は気力が肝臓に蝕まれていたんですね。

三七日の文珠菩薩様の次は普賢菩薩様。
何だか聞いたことのある並び。福井の敦賀原発に付いている名前・・・。
こんなことを言い出すと、あなたは「見ざる!言わざる!聞かざる!」と嗜めるのかもしれませんね。

既に廃炉となって解体中の「ふげん」(解体中にも作業員が被爆)と、同じく昨年2010年から再稼動中の高速増殖炉「もんじゅ」の2基。
きっと、慈悲と理知の力で原発が日本の「仏」となると信じて命名されたのでしょうが、一方、仏に念じずにはおれない不安な心が含まれていたのかもしれないと僕は思ったりしています。

その「もんじゅ」で思い出したのですが、昔、まだ僕の子どもたちがチビだった頃、親戚と一緒に皆で天橋立に行きましたね。
あのときに泊まったのが、文珠荘 松露亭(当時は別館だった?)。
あなた好みの数奇屋造りで、とても落ち着いた雰囲気でちょっとエグゼになった気分でしたね。

でも、次の朝、下のチビが熱を出してしまい、嫁さんが旅館で付き添って、どこにも行けなかったことも、あなたは病床で思い出していましたね。
あのとき、橋立観音(成相寺)には参詣しましたが、智恩寺にまでは参詣できませんでした。
子どもたちが文殊菩薩のご利益に預かれなかったのは仕方ないことでしたね。

「学歴なんか二の次」といつも言っていたあなたの遺伝子の良いところを、どちらも引き継いでいると僕は思っていますよ。
僕にも嫁さんにも似て、どちらも頑固ですけれど、不思議に周囲から可愛がられているようですし、少なくとも僕よりは上手く生きていく術を心得ているようですから安心してください。

原発に関しては、「原発について」のコーナーに集約したいと思うのですが、あなたが本当に家での普通の生活が出来た最後の10日間は、東日本大震災のニュース一辺倒の時で、あなたはいつも涙をポロポロこぼしていましたし、僕も思ったときに書いておかないとすぐに忘れてしまうので書いておきますね。

僕は、結局は、リバタリアニズムの立場かリベラリズムの立場かあるいはコミュニタリアニズムの立場かというところで見解が分かれていることであり、それ以上でもそれ以下でもないように感じています。

そして、世界の原理は、どの原理よりも市場原理が最上位に位置するという暗黙の了解の下、市場原理の為すがままに任せる「レッセフェール」が空気となり、そこでは、否応なくリバタリアニズムの方向に向かって全てがベクトルを合わせてきているんですよ。

「公共」という手枷足枷を嵌められた原発ですらもその風景の例外ではないということに他なりませんね。

原発に物理的なリスクがあることは、誰でもが覆しようのない事実ですが、そのリスクによる万一の場合を公共性、いや生存権よりも優先するという理念を人間は選んだということですよね。
こう言えばカッコいいことに見えますが、下世話に言えば、「何をしてもいいから経済成長しなさい」ということを選んだということですよね。

あなたが最も忌み嫌った言葉「強いもの勝ちの世の中」なのかもしれませんね。
それで思い出したのですが、「最も強いもの、賢いものが生き残るのではない。最も変化に敏感なものが生き残る」なる格言が、よくダーウィンの『種の起源』の引用として語られますが、実は、これがダーウィンの言葉である証拠を提出した人は誰も居ないようですね。

『種の起源』自体には何の興味もなさそうな人々や団体が、出典を確認することもなく、得意げにこの言葉を引用するのは、「変化に敏感」とは何かということが、まさに市場原理の為すがままのレッセフェールの中で変化を先読みすることに他ならないのだと教えられたことに感銘し同調してのことなのでしょうね。

まさに、恥ずかしげもなく何でも都合よく利用する術に長けているということにしか僕には映りません。

さて、リバタリアンの代表とも言える池田信夫氏は2011年05月08日の段階で、
下記のようなブログを発信しておられました。

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東日本大震災は世界史上にもまれな大地震だったが、福島第一原発の最大加速度は448ガルと新耐震基準の想定内だった。

1号機は1967年に建設されて老朽化した原子炉だったが緊急停止し、配管の破断も起こらなかった。だから前にも書いたように、今度の事故で日本の原子炉本体の耐震性はむしろ証明されたのだ。

・・・

そういう法的な手続きなしに個人的な「要請」で原発を止める前例をつくると、日本の電力会社は深刻な経営リスクに直面する。
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実は、4月1日の段階で、東電は福島第1原発・第2原発の最大加速度を発表しており、第1原発では、3基で500ガルを超えていたことが発表されているんですね。

ところが、1ヶ月以上経っているにもかかわらず、わざわざ3月19日の古い新聞記事を引用しておられるんですね。

まさに、リバタリアンらしく、如何に福島原発の問題を思い遣っていないか、ましてや周辺住民のことを思い遣っていないかが、最新情報も調べずに書いておられることからだけでも見て取れるのではないでしょうか?

それ以前に、阪神淡路大震災では、最大加速度では約800ガル程度記録していたはずですね。
あれからもう16年、こんな程度の耐震基準のままでまかり通っていたということ自体が、どう考えても、「ナメてるんじゃねぇ?」と思わない人が居るのでしょうか?

それを、「日本の原子炉本体の耐震性はむしろ証明されたのだ。」と解釈する楽観性は、どこから出てくるのでしょうか?
安全率もフェールセーフも使ったことがないだろう人が、堂々と公に判断してもよいのでしょうか?

結局は、住民への危険性を慮るよりも経済を優先する方が重要課題だという姿勢、「そんな巨大地震なんか俺たちに責任がある時代には起こらねぇ」という身勝手な希望的観測以外の何が浮かび上がってくると言うのでしょうか?

ましてや、対津波の強度に対してなどは、たとえ簡易的な設計指針であったとしても、どれほどの安全率が施されていたことかと想像するだけでも切なくなってしまいます。

おそらく、想定できる津波に安全率を考慮すれば、設計自体が不可能か、出来上がった構想図を見て、「これほどの強度は必要なし」あるいは「どんだけ予算を食うねん」と冷たく突っぱねられるような代物でしょうね。

実際の設計者に日本人が携わっていたとすれば、それでもつじつまを合わせなくてはならないジレンマにさぞかし良心が痛んだことだと思います。
僕なら、リー即で辞表出しますけれどね・・。


彼らは、自らと社会が経済成長すること自体が目的となってしまっているんですね。
それは何故か?
「営み」ではなく、「難しいことは考えなくてもいいゲーム」だからです。

公共性や共同体意識を捨て去ることで、利益追求への障壁は無いも等しくなってしまいます。
より賢者は、公共性や共同体意識をアクセサリーにすることで利益追求をより正当化するでしょう。
まさに、「最も変化に敏感なもの」たちの手練手管が満ち満ちているのが現実社会です。

難しいことは考えなくてもいいわけですから、もっと狭い枠組みで考えれば、今までうだつが上がらなかったような人にでも夢を与えることができる原理ということになるはずです。

ただ、いくらなんでも公共性の代表のような機関や会社が、それをアクセサリーに貶めるような軽々しい営みをやっちゃダメでしょう。
もし、それでもやるというなら、受益者負担・受益者責任のもとに推進者と受益者の共同体自体が、リスクのある地域に居住を構えて行うべきことだと思いますね。

僕が「分業化」がもたらす罪悪性を述べたとき、友人の松平勝男さんに、「共同体が共生社会であれば分業が生じても、身分的な階層分化を生むものではなく、共同体の共通利益、方針に従って矛盾なく動くものである」というご指摘をいただいたことがあります。

個人レベルでの分業化の弊害は別として、まさにその通りだと思うわけです。
全ての私たちは「共生社会」という概念の恩恵に預かりながら、ここで仮定されるべき「共生社会」本来の原理が形骸化されているという現実が問題なのです。

「共生社会」という概念も、やはり本来の哲学的概念からは変質してきていると感じます。
それは、リバタリアンにとっても、利益をもたらす対象との「共生」が必要不可欠だからです。
利用しようとする側が利用される側に向かって、「共に生きようよ!」と語りかけ、熱烈なる支持を受けている光景が僕には浮かび上がります。

会社や地域などの小さな社会からその集合体である全社会に「共同体」・「共生」という理念、僕は「公共性」とも言っている理念ですが、この理念が完全に希薄になっていると同時に変質している。

それでも、僕は本来のコミュニタリアニズムを原位置とした社会の実現にしか、人類社会が矛盾無く永らえることは出来ないと考えています。

それを可能にするのは、

  • より多くの人が与えられる情報の真偽を判断する知恵を獲得するべく勉強をすること
  • より多くの人が、与えられた磁場の方向性が正しいかどうか考え判断すること

それ以外に方法はないと思ったりしています。

母上様
今日は僕の悪い癖で、つまらないことを書いてしまったことに愛想をつかしていることでしょう。
でも、あなたが忌み嫌った「強いもの勝ちの世の中」
僕は、「考えない者勝ちの世の中」だとしみじみ思ったりして、あなたを思い出しています。


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