阪神タイガースと虎風荘寮長の思い出
1962年阪神タイガース初優勝年の直筆サイン
1962年と言えば、2リーグ分裂後、阪神タイガースが初めて優勝した年。
上の画像は、その主力選手の直筆サイン色紙です。
どの選手のサインかお分かりになりますでしょうか?
約1名ははっきりお分かりになりますよね?[ ヒント ]
この年のメンバーは下記に記されています。
本サイン色紙は、2018年12月30日(TPP11整備法による保護期間延長)以前に著作権が消滅しています。
これにより、最新技術とはいえ、精密さへの手間暇をかけて新たな色紙としてに復元しましたので、ご要望がございましたら複写版としてご提供させていただきます。(予約制)
サイズ:273×242mm
色紙材質:奉書紙
配送方法:クリックポスト便
価格:2,800円(送料・印刷料込み)
阪神タイガース初優勝1962年の直筆サイン 復刻・複写色紙 お申込みはこちら
60歳代半ば以降の世代で熱烈なる阪神タイガースファンにとっては、人生の締めくくりとしての終活や総括として利用されるのもアリなのではないでしょうか?
「お父さんといえば阪神タイガースだったね!」・・・そんな絆をつなぐ一素材としても...。
阪神タイガースへの思い入れをエネルギーにしながら、会社で辛い思いをしながらも頑張ってあなたを育ててくれたお父さんへのプレゼントとしても...。
あるいは、ご自身であれば、当時を振り返りながら、それぞれのサインが誰なのかを類推していくことも楽しいひとときをプレゼントしてくれることでしょう。
親父と元兵庫県警デカ長と阪神タイガース
「介護のこと」とは全く関係のない話になってしまいますが、僕の母親とは切っても切れない父親を回顧する中で、千人針の次に出てくるのが阪神タイガースなんです。
上の色紙にもある1962年の頃から僕の親父は某銀行の甲子園支店にて支店長代理を務め、仕事の関係上で阪神球団フロントと親しくお付き合いをさせていただいていたようです。
親父は、この4年後には病気によって帰らぬ人となり、この甲子園支店時代が子どもの僕にとっても思い出多い職場となっっています。
何故なら、何かの催しでもあったのか、職場に連れて行ってもらったことをおぼろげに覚えていますし、江崎グリコさんとも取引があったのでしょう、何よりグリコのお菓子をよく持って帰って来てくれた思い出があるからです。
また、阪神球団とのお付き合いの中で、兵庫県警でデカ長をされていたN氏とも親交が深かったようで、親父の没後も私たち親子を心配した年賀状を毎年いただいていた思い出があります。
N氏は、その後、阪神球団のフロントとして、虎風荘の寮長を12年に渡って勤められたようです。
今、僕は、この寮長の温かい目にも支えられていたという忘却の彼方に追いやられていた事実を噛み締めています。
今、まだご健在であれば嬉しい限りです。
そんなご縁でいただいていたのが、ここで掲載している3枚の色紙。
1962年優勝時のサインは親父がいただいてきたものであり、下の2枚は、親父が逝去した数年後、虎風荘の寮長になられた時期に、N氏が母子家庭の僕を気遣ってプレゼントしてくれたものです。
また、親父は、小山投手とは個人的にもお話をさせていただいたことがあると言っていたように記憶しています。
だからこそでしょうか、優勝翌年、世紀の大物トレードと騒がれ、大毎オリオンズ(1964年より東京オリオンズ)に移籍した小山正明投手単独のサインボールをも持ち帰ってくれました。
さて、最初の色紙の1962年当時は、僕はまだ8歳。
1964年のスタメンははっきり記憶に留めていますので、野球を興味を持って見るようになったのは9歳~10歳ぐらいだったのでしょうね。
大洋ホエールズ 近藤 昭仁選手の名前もあの独特な打法も鮮やかに覚えていますから、多分間違いないでしょう。
思い返してみれば、親父の甲子園支店在職中に2回も優勝しているのですね。
よく考えてみれば、凄いことですよね。
私が、本当に阪神タイガースの熱烈なファンになった途端に、あれだけ優勝できそうでできなかったチームがですよ・・。
親父は、阪神球団の福の神だったのかもというような、少々穿った見方も出来ないでもありません。
田淵幸一選手の直筆サイン
左は、ご存知、田淵幸一選手の直筆サインです。
田淵幸一選手の阪神入団は1968年です。
親父の逝去が1966年ですから辻褄があいませんね。
実は、前述しましたように虎風荘の寮長になられたN氏が、母子家庭の僕を慮ってプレゼントしてくれたものなのです。
本当に、人は知らず知らずのうちに誰かの暖かい目に守られて生きているものであり、人はその文字の作りの通り、支えあって生きていくものなのですね。
ですから、感謝の念を忘れたときに、人は人でなくなるのだと思うのです。
物心ついてからの親父との思い出で鮮やかに思い出せることは少ないのですが、この頃の日曜日に甲子園支店に連れて行ってもらったことがあることと、甲子園球場での阪神・巨人戦ナイターに何度か連れて行ってもらったことだけはおぼろげに記憶に残っているのです。
さて、4匹のトラのサインは誰でしょう?
右の色紙は、4人の直筆サイン色紙です。
これも同じく、N氏が僕のために贈ってくれた色紙です。
さて、誰のサインだかお分かりになりますでしょうか?
[ ヒント ]
ちょうどN氏が虎風荘の寮長になられた1970年のメンバーです。
何故、この年に優勝できなかったのだろう?
そんなメンバーです。
僕が好きだった下手投げの投手が居ます。
[ 答え ]は、画像クリックで!
60年代、70年代の阪神タイガース。
あなたは、どの選手が思い出に残っていますか?
僕は、1962年~1968年当時では、やはり、
- 投手王国を築いた小山正明・村山実・バッキー
- 黄金の二遊間コンビ:[鎌田実・吉田義男]+本屋敷錦吾+安藤統男
特に、鎌田選手のプレーが好きでしたね。 - 遠井吾郎ちゃん
- ヒゲツジ:辻佳紀
1968年~1980年当時では、やはり、
- 投手では何と言っても江夏豊・若生智男・上田二朗・山本和行
- 黄金の二遊間コンビ:[中村勝広・藤田平]
- 主砲では、当然、田淵幸一・ブリーデン・掛布雅之
- ラインバックは最高だった
- 代打の神様:桑野議
こうして思い返すと、N氏にはとても気にかけていただいていたことがジワジワと思い返されます。
そういえば、大学受験の際にも、電話で結果をおふくろに尋ねてくれていたような記憶がうっすらと蘇って来ました。
このように文章を書きながら思い起こしていくと、忘れ去っていた記憶が呼び戻されてきます。
僕は、肉体労働することが如何に大切かということを勉強面でも説いているのですが、今、文章を書くということの効用をしみじみと感じています。
僕は、大学に入り、徐々に野球に興味を失くすとともに、N氏の気持ちまでをもいつしか忘れ去ってしまっていたのですよ。
おふくろも女性ですし、まだ40歳代でしたから、男性の親切にも少し距離感をおいていたようにも思うのですが、それは別問題として、こうして文章にして、初めて事実関係が思い出されてきたこと、何も恩返しすることもなく忘却の彼方に追いやっていたことを悔やむ気持ちでいっぱいです。
ただ、僕自身、一生忘れたまま朽ちていくよりは良かったのではないかと感じるばかりです。
さて、その後の僕は、する方ではテニスとサッカー、見る方ではサッカー・アメフト・ラグビーの方が圧倒的に好きになり、大学生となってからはほとんど見なくなり、27歳前後を境目にテレビですら野球を見ることは全くなくなりました。
阪神タイガースで言えば、ちょうど、ラインバック・ブリーデン時代のガッツ野球で見る機会も復活はしたのですが、これを最後としてプッツリと見なくなりました。
激務が当たり前の業界への転職と重なっていますから、物理的な要因も確かにありますね。
独立したらしたで、その上に、野球やスポーツのことなどには構っていられない精神的な圧迫感も加わり、ますます見なくなった感じでしょうか。
-2011年9月18日-
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