河原町のジュリー | 凛とした精神と恋人たちの京都

河原町のジュリー ~あるルンペンの思い出~ | 阿月ヒカル

2000.07.01著

河原町のジュリー in 京都

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阿月ヒカル or 真理絵さん(当時のペンネーム)の”言葉の花束”のエッセイページで『河原町のジュリー』を読んだ。

60歳半ば以上(2022年現在)の年代で1970年代に京都に関わりのあった方には懐かしいと思われる方も多いことでしょう。

僕自身は学生時代には常時といっていいほど四条河原町付近を徘徊していましたが、その時には彼にお目にかかることはありませんでした。
パチンコに没頭していたのかもしれません。

「ルンペン=落伍者・敗北者」と短絡的に考えているうちは、運の本当の恐ろしさなど、まるで分かっていないに等しい。

旧「阿月工房:言葉の花束・Eclipse」より

阿月さんの言葉(現在は編集削除されている)が胸にグサッと突き刺さって脳裏から離れないエッセイでした。

とにもかくにも、インターネットで『河原町のジュリー』を題材にエッセイを書かれたのは阿月さんが最初だと思います。

これにリスペクトして僕がこのコンテンツをアップした当時、『河原町のジュリー』は検索してもほとんどヒットしない状態でした。

尚、阿月ヒカル or 真理絵さん(現在は優月まりさん)の現在のコンテンツページは↓こちら↓

旧「言葉の花束・Eclipse」より『河原町のジュリー ~あるルンペンの思い出~ 貧困に対する社会の想像力とは』

河原町のジュリーに出逢った日

河原町にルンペンがいるという話しは確かに学生時代に耳にしたことはあると思うのですが、それを『河原町のジュリー』として認識したのは、卒業してからだったかもしれません。

学生時代は、サークル活動や学生運動、アルバイトに大方の時間を費やしていた上に、授業にはあまり出ない分、夜な夜な独学で勉強していましたからでしょうか、在学中にお目にかかった記憶はありません。

そして、大学を卒業して数年が経った頃だったでしょうか?
80年代初頭、学生時代の友人である野郎と看護(卒業当時は京大医学部附属看護学校)を卒業して看護士になった女性と3人でまさに河原町通りを歩いていたとき、『河原町のジュリー』とすれ違ったことがありました。

「あっ、ジュリー違う?」

その声に、キョロキョロ探すと、看護士の女性が「目を合わせちゃだめなんだって!」と言うのです。
そのとき、ジュリーの風貌を初めて鮮烈に焼き付けた想い出があります。
何か近づきがたい厳としたオーラというか威厳があったように記憶に留めています。

ちなみに、「Mちゃん」って呼んでた看護士の彼女は、今でも僕のことを「出会った頃(18歳)は、なんて冷めた見方する人なんだろうと思った」と言います。

18歳にして、そんなことを思わせたのには少々罪深さを感じてしまいますが、そりゃぁそう思ったのも当然かもしれません。

僕自身が高校時代には坂口安吾や太宰治、芥川龍之介に深く傾倒していて、「人生なんて、みんな演技しているだけなんだよ」みたいなことを彼女に言った覚えがあります。

そんな私でしたから、阿月さんのこの言葉には、「俺だって、いつ、どんな理由でルンペンになるかもしれないんだ」と心の底からそう思ったのでした。

そんな彼女も、どこだったかの看護学校の校長から、奈良女子大学で博士号を取られて、今や大学教授になられています!・・・僕の体たらくぶりとは大違いです。

まあ、おっとりした姉御肌に頑張りが加われば、当然のことかもしれません。

河原町のジュリー~あるルンペンの思い出~:素敵なサイトがあった!

さて、河原町のジュリーの内容は、僕などの記事よりも、阿月さんの深い造詣と考察に富んだ綺麗な文章でお読み頂くのが圧倒的によいかと思います。

実は、阿月さんのサイトも幾多の変遷がありましたため、ご紹介リンクが切れてしまっている状況が何度もございましたことお詫び申し上げます。

上記しましたように2022年現在は再度正しいリンクを設定済みですので、是非、訪れてみてください。

阿月さんは、上述しています僕が「Mちゃん」と呼んでいた彼女と同じ看護師さんで、国際結婚されて現在はヨーロッパで暮らされています。

私の中では、メディアや書物での認識をも含めた出会いの中で最も聡明な女性という印象があります。
昨今、「女性活躍社会」とかでメディアに出てくるよな浅薄で欲にまみれたような醜い女性とは雲泥の差があります。

阿月ヒカルさんサイトの変遷

月日が経つとともに、阿月さんのサイトにもいろいろと変遷があり、それに追随する形で極力リンクの変更を行ってきました。

2019年のチェック時には、阿月さんへのリンクを貼る数ページで下記のように記載しておりました。

2007年あたりに一度、URL変更のご連絡をいただき修正していたのですが、2019年にチェックしましたら、こちらも既に開かなくなっていました。

昨年(2018年)ぐらいまでは開いたはずなのですが…。

少し探してみましたが、2ch的な人を中傷するような書き方しかできない連中が増えてきたからでしょうか、現在は、自分用だけのアーカイブとしてしか利用されていないのかもしれません。

批判するのは良いことですが、それが中傷的な書き方でしかできないのでであれば、それは、自分では何もできない何もしない傍観者的ゴロツキ評論家です。

そういった輩ばかりが増えてきていることで、サイトを未公開状態にされているのかもしれません。

彼女は、文学や映画・音楽・絵画などの話題やWeb技術にも長けておられるようで、IT技術に関する話題も加えて、2000年以前からユニークな視点で、日常の暮らしから、恋愛・子育ての話題まで発信されていました。

看護士を勤められた後、国際結婚をされ東欧圏内に住んでおられますが、この多忙で変則的な生活を余儀なくされる職業にして、これだけ多彩な文化を題材に、多くのことを語れる博学さと、且つ感受性と優しさの豊かな女性は、めったにお目にかかれるものではありません。

でも、お会いすれば普通のざっくばらんな女性であることは、私には容易に想像できます。

ということで、残念ながら、すでにHPをご案内することが出来ません。

2019年追記記事

2020年、わざわざ、新たなサイトで運営されていることをご連絡いただきました。

特に育児系コンテンツはパクリ被害が多いことに辟易とされて、現在は有料コンテンツにしておられるそうですが、本標題のコンテンツのみは、私どもが紹介しているということもあって全文公開分の中に入れていただいているようです。

ネットで小遣い稼ぎする素人ライターなどは、如何に他人のコンテンツを平気でパクっているのかを如実に表していますよね。

当事務所の学習関連のコンテンツですら、某塾にほとんどパクられていることが明らかなものがあります。

ともかくも、阿月ヒカル or 真理絵さんの全文閲覧可能コンテンツは下記から出会っていただけます。

2020年追記記事

最古アーカイブ:2007年8月

2007年8月、正真正銘の阿月様よりメールを頂き、下記サイトでバックナンバーが公開されている旨ご連絡頂きました。
その後、変遷がありましたが、現在はちょっと見れないようです。(格納されたのかな?)
その代わりと言ってはなんですが、下記の記事をご紹介しておきましょう。

もともと、ご姉妹でサイト【阿月工房】を運営されていたように思いますが、おそらく、今回メールを頂いたのは、お姉さんのサイトにエッセイ【eclipse】を掲載されていた妹さんだと思います。
どちらにしても、ご姉妹そろって、素晴らしい感性で文章を書いておられました。

※上記の点に関しては、おそらく私の推測違いだと思います。
でも、そういうペンネームからの推測も楽しい時代だったなと今更ながらに思います。

現在は阿月まりさん、あるいはベルバラ関連のエッセイでは優月まりさんとして、サイトを運営されています。
素晴らしい知的感性が溢れる「恋と生き方」のエッセイページですので、是非ご訪問されてみてください。
国際結婚されて落ち着かれた今、新たなサイトとともに子育てのメールマガジンも発行されています。

あらためて、サイトのTOPページは↓こちら↓です。

阿月ファンだった僕としては、メールを頂いたときには、探し物を見つけたときのように嬉しい思いが溢れました。

2008年追記記事

阿月さんの著作とスタンス

当サイトでは、阿月さんの本名は差し控えさせていただきますが、その後、Amazon Kindle版にて下記の著作を公開されています。

やることが多すぎる割には、やはり体力の衰えもあって悶々としている私も、いつかマイペースで読ませていただこうと思っております。

真面目な医療寄りのSFでした。

私も一応へっぽこ看護師ですが、かつて看護師であったという筆者の、生化学から臨床推論まで幅広い医療知識を尊敬せずにいられません。

なぜか誤字が少しありますが、全く気になりませんでした。

舞台となるTOWERを始めとする建築や景色の描写は美しく、登場人物たちの正義や葛藤には共感するものがあって、医療だけではなく聖書に関連したことが学べて、なによりアドナとスティンの恋愛がとても魅力的でした。

悲劇的なラストでしたが、逆に美しさが際立って読み終わりました。

本格的なSFで面白かったです。ありがとうございました。

“TOWER”の読者レビューより

阿月さんがプロフィールで書かれていることとダブりますが、インターネット黎明期は本当に魅力的なサイトやブログが百花繚乱でした。

もちろん、明らかな詐欺情報も多くあり、悪意への免疫を持たない一般層の多くを食い物にした側面もありましたが、一方で、個性的な人々に出会って討論や意見交換の場も多くあり、広い世界を学ぶ機会がふんだんにありました。

私自身も教育関係のメーリングリストに参加していましたが、いろんな教育観があったり、いろんな突っ込みがあったりして、感性や知性が鍛えられたものですが、今や、それが安直な感性だけで浅薄な言葉が撒き散らかされるSNSに取って代わられています。

私も、2000年にして「ミヒャエル・エンデとインターネットバブル」にて、下記のように記していました。

資本が「IT」に本腰を入れてGOをかけて来た以上、やはり、この領域も一般社会と同様に冷徹なまでに資本の論理が支配するようになるのは時間の問題だということもある。

「ミヒャエル・エンデとインターネットバブル」(当サイトに移設予定)

そして、資本のためのインターネットが完遂されたのが、阿月さんが書かれているように、2020年5月のGoogleコアアップデートでした。

その結果、これも阿月さんが書かれているように、今やインターネットはますます野心ある資本の電話帳と化し、資本の傘下でうっぷん晴らしや暇つぶしをする一般利用者のための享楽道具となり果てました。

だからこそ、そんな中でも、阿月さんの知性・感性・表現力・文才の足元にも及ばないにせよ、私も少しでも真実に近いところを未来へのことづけとして残せるように営々と運営していこうと考えております。

何か全てを包み込みながらも凛とした京都の精神

一介のルンペンが『河原町のジュリー』たり得たのは何故か?

それは、阿月さんの言われる通り、社会全体の包容力であり、同時に運の悪さに同情する心根というものが残っていた時代だったということに依るでしょう。

冒頭のエピソードは、サラリーマンとして新たに自動機の開発・設計技術者に転職した当時でもあり、僕自身ですら技術立国を支えている自負が非常に強かった時代です。

それだけに、「上り詰めたら下るしかない」ということへの漠然とした不安を感知するには至らず、徐々に、飛ぶ鳥を落とす勢いがずっと続くと信じることが当たり前となっていたことは否めません。

そして、この後に到来する「バブル時代」に、「他人を憐れむ心」や「他人の心を想像する心」が人心の中から徹底的に消失していったのではないかという思いがします。

ただ、このような時代背景とともに、京都が持つ精神も特異的ではなかったのかという視座からも少し綴っておきたいと思います。

『京都』には大阪や神戸には無い、凛とした精神のようなものが流れています。
時代に関わり無く、一人のルンペンの存在などが話題になるということ自体が『京都』ならではという感がしないでもありません。

神戸が大阪と全く違った臭いがすることとは全く次元を異ならせて、『京都』は大阪や神戸とは全く異質なんですよね。
同じ近畿にありながら、全く異質なんです。

確かに、地域社会に根付いて生活するにはどうなのかは疑問符ですが、少なくとも学生やスピンアウト人種にとっては包容力のある街であることだけは確かだったような気がします。

僕は地域で子ども会にも関わっていましたから、地域の保護者さんにも沢山お会いしてきましたけれど、「よそ者」扱いを受けたことはただの一度もありませんでした。

それどころか、何かにつけて協力的に接していただいたほどです。

蜷川府政が無くなった後、政治的には同質化しても、感覚としては依然として他の大都市と同質化はして来なかった(と僕は思っている)のは『京都』の持つ独自『文化』の匂いが残り香のように染みついているからでしょう。

時代の流れの中で『大阪』の後追いを志向していたなら『京都』はおそらくダメになっていたでしょうし、また、それをさせないのが『京都』の厳たるプライドだという気がします。

いつまでも、京都は『京都』であり続けてほしい・・そんな願いは僕だけでしょうか?

京都が『京都』でなくなったら・・・。
日本自体が、灯台を失って漂流する小船のように安心できる拠り所を失ってしまうような気がするのです。

日本にとって、唯一『京都』、正確に言えば『京都の精神』は無くてはならない存在ではないでしょうか?
『大阪』が無くなっても何とも思いませんが、『京都』だけは決して無くしちゃならない!

さても、阿月さんの書かれているように、

「ルンペン=落伍者・敗北者」と短絡的に考えているうちは、運の本当の恐ろしさなど、まるで分かっていないに等しい。

という言葉の本当の重みが体で分かってきている今日この頃です。

河原町のジュリーは自分自身なのかもしれないとつくづく思うのです。
でも、実際にそうではないところに、自分のウソが隠されているのだよね?
人は、それを『大人の良識』という言葉で説明するけれど・・・。

注記

※阿月さんの現在掲載されている文章は初稿から改訂されているのでしょう、上記の引用文の表現は今はありません。

僕が愛した恋人たちの京都

京都をモチーフにした素敵な恋の曲があります。
どれも、河原町のジュリーが居た70年代に巷で流れ、よく口ずさんだ曲です。

卒業した後、神戸に戻っても、京都は神戸以上にデートコースからは決して外すことはできない思い入れがありました。

30歳で結婚するまでに、会社内や友人を通していくつかの出会いがありましたが、京都でデートしようと思えるほど好きだったのは、ここまで連れ添ってきた妻とその前にお付き合いをしてくれた女性だけでした。

今となっては思い出すのは、パラレルワールドがあるわけでもないだろうに、やはり実らなかった恋の方なんですね。

やはり、人間というのは為し得なかったことに対する後悔の念、歌の歌詞ではありませんが「命を懸けたらできたのに」などという思いを引きずって生きているのかもしれないと思ったりします。

京都は学生時代に共有した街といった事情もありましたし、二人の地理的な事情もありましたから京都か神戸か姫路でデートがお決まりで、申し訳ないことに大阪でデートするなどということは、奈良が実家の妻とのデートでさえ一度もありませんでした。


嵯峨野さやさや(1975年)・・・たんぽぽ

京都嵯峨野の 直指庵
旅のノートに 恋の文字 どれも私に よく似てる
・・・・

何といっても、嵯峨野・嵐山でのデートが最も思い出深く、決して彼女が心変わりしたというわけではないのに、この歌詞が身に染みるほどに、二人で歩いたこと、茶屋で休憩したシーンが脳裏に残っています。

今では、人が多すぎてって感じがしてしまいますが、やはりNo.1。
その他では、やはり、貴船・鞍馬や大原、あるいは変わり種で大原野といったところでしょうか。

京都で逢った人・・・深野義和

京都で京都であった人 忘れはしない
いつかしら もう一度 訪ねてみたいの
・・・

この歌をご存知の方は少ないのではないかと思います。
僕も卒業してから聴いた歌だと思うのですが、僕たちが友達以上として付き合い始めたのが卒業後数年を経てからのことですから、なおさら心に染みる歌です。

クイズ

この歌詞の中で、嵯峨野・嵐山から程遠い名所名(地名)が一つだけ出てきます。

ちょっとマイナーですが、どこかお分かりになりますでしょうか?

何かの勘違いなのか、ここからこの〇〇〇が見えたのかは私にも分からないままです。
いくら見えても、「アッ!〇〇〇が見えた!」と言えるのは、地元の人か相当の京都通だと思われます。

女ひとり・・・デューク・エイセス

京都大原三千院 恋に破れた女が一人
結城に塩瀬の素描の帯が 池の水面にゆれていた
・・・

2012.07.07追記

『河原町のジュリー』で検索をかけると、今や、なんとwikiにも掲載されていました。
そして、その中で「河原町のジュリーは、2000年頃からインターネット上を中心にして再び話題に上るようになった」とありました。

まさに、阿月さんがこのエッセイをしたためられ、僕が追従して反応したことがネットでの話題のきっかけの一つになったのかもしれないと思うと素直に嬉しい気持ちが込み上げます。


2007年追記

この夏、娘に同女(同志社女子大学)の友人の下宿から行けるおすすめスポットを聞かれた。
「そこからなら【貴船街道 恋の道】をおすすめするよ」としておいた。
決して、下らぬ男とだけは「恋」はしてくれるなよ!と願いつつ…。