礼儀

最近の子どもたちは、先生も友達と同列の扱いなのでしょうか、タメ口が当たり前のようになっているようです。

私の娘も高校教師をやっていますが、「〇〇ちゃん」は当たり前で、「〇〇」と呼び捨ても結構あるようです。

娘とは年齢も一回り違う程度ですが、この間の変わり様には唖然とすると娘が言うほどですから、娘の高校時代でもビックリしていた私などは腰を抜かしてしまいます。

思い返せば、学生時代、私たちの2年下ぐらいからポツポツ、3年下は完璧に理解不能の異星人と思えるほど性質が変わったことを感じたことをはたと思い出してしまいます。

「新人類」と呼ばれた世代の登場です。

単に、学年カラーの相違では説明できないような変質を感じたものですが、改めて考えると、今の高校生世代の親御さんは私の年齢の5年下ぐらいから15年ぐらい下の世代、まさに『新人類』と呼ばれた世代なのだと気付かされました。

もちろん、一括りにすることはできませんが、あながち無関係とは言えないかもしれません。

9割以上の方が、タメ口は「直すべきもの」として認識しているのに・・

さて、『タメ口』もお互いの親しさを表したいがためのことであるのはよく分かりますが、のべつまくなしにタメ口を叩くとすれば、傍目から見ても心地のよいものではありません。

実際、タメ口や言葉遣いに関するネット上の意見を見回しましても、ほとんどの方、9割以上の方がタメ口は「直すべきもの」として認識されているようですし、少なくとも中高生になれば先生や目上の人に対するタメ口はしないように指導するべきだという意見が絶対的多数のように見受けられます。

一安心なのですが、現実的には、学校の先生も軽く受け流すだけで注意すらしないのが一般的です。

そこには、そのタメ口はたいていが親愛の印としてなされているものであるという雰囲気と、それなら、むやみに注意して嫌がられるよりも人気のある教師でいたいという心理的な作用が働くからでしょう。

しかし、それは勝手な思い込みと思わざるを得ません。
むしろ、おどおどして遠慮しているからバカにされるんだぐらいの気持ちを持っていただきたいものです。

私の娘などは、あまりに酷いと、相当汚い言葉を使ってでも生徒と面と向かって対峙するようですが、何のことはなく生徒に超人気のようです。

とは言っても、先生には、時間的にも環境的にも逆境に向き合わねばならない中、あえてトラブルを増やすことは避けたいという心理作用が大きく働くことに、頷いてはいけないのでしょうけれども頷けてしまうところもあります。

そもそも、そこまで先生に神経を配らせる事態が異常なのですが、見かねて先生が注意したとして、必ず、「私の子どもにえらそうに何を説教してくれてんのよ!」と怒鳴り込んでくる親御さんも少なからずいらっしゃるようですから、そりゃぁ先生の憂鬱も理解できようというものです。

その上、誰が知恵をつけるんでしょうか、「殴っってもエエよ!その代わり、賠償金用意しときや!」などと挑発してくる生徒までいるそうです。

別に札付きの悪という子ではなく、普通の子がです。

さて、先ほどの「中高生になれば指導すべき」との意見は正論のように見えますが、変な言い方をすれば、小学生卒業までは放置しておいて、さぁ中学になったから直しましょうで直るならば誰も苦労はしません。

他者との関り合いや社会との関わり合いの中での守るべき規範、コミュニケーションをスムーズにするための規範は、勉強とは別に絶対に身につけさせなければならない生きていく上での基軸です。

だからこそ躾けるのであって、しかも、その躾は連続的な働きかけや指導でしか身に着いていかないものですから、中学生になって突然指導しようなんてことは成立する筈がありません。

但し、親自身が先生にタメ口で話しているようでは、躾もクソもあったもんではありませんがね。

しかし、どうも保護者自身が「子どもによく思われたい」一心で、人として大切なことまでも見て見ぬふりをして、それを『フレンドリーな親子』という便利な名分で、親としての自分を甘やかしている傾向が強まっているような気がしてなりません。

子どもの言葉遣いを見れば、親の躾、ひいては、その親自身の礼儀・人格レベルそのものが知れます。

まぁ、ネットを見ていても、「(親しくなるために)いつ、タメ口に切り替えていったらいいでしょうか?」などという大の大人のアホな質問がゴロゴロ転がっています。

目にする度に、「これじゃ子どもを育てることなどとても出来んでしょ!」と思わず嘆息しちゃいます。

お互いに心を許し合えるほどに親しくなったからタメ口で話せるのであって、タメ口に話せば親しくなれるものではないということすら分からないかのように見えます。

はっきりと言いまして、この現代でも『タメ口』と『敬語』をきちんと使い分けている子には「伸びるだろうなぁ」と思うことも多いですが、先生にはもちろん、誰彼無しに『タメ口』で喋る子に出来る子や伸びそうな子は見たことがありません。

『タメ口』は親しさというよりも、結局は、自分のレベルに引き摺り下ろしても許容してくれる人ばかりであることに安心感を覚え、世間全般の他人を全て甘く見ることによって、自分の人生も甘くてもやっていけると錯覚することに過ぎません。

あるいは、集団の中に「なぁなぁ」で安住する安心感と言えましょうか、まぁ、人に「いいね」をされたりしたりの関係とよく似ているかもしれませんね。

要するに、そこには「この人から学ぼう」という意識は伴わず、あるいはそれを排除して相手を同列に見なすことで自分を正当化しようとする企みとさえ言えるでしょう。

親が教師が何も言わないとすれば、その企みに協力しているようなものであって、社会人としての将来をダメにすることに加担しているようなものではないでしょうか?

立場や状況を考えず『タメ口』を使うクセは、何事に対してもメリハリをつけないクセと同値

さらに重要なことは、立場や状況を考えず『タメ口』を使うクセは、何事に対してもメリハリをつけないクセと同値だということです。

  • 頑張るということに対してもタメ口になります。
  • 勉強するということに対してもタメ口になります。
  • 頑張らないこと勉強しないことがトレンディだと合理化することになります。
  • 即ち、人生の大切な時間すべてに対して『タメ口』になるということです。

メリハリのある時間の使う経験を持とうとしない=何かに躍動する時間を持てないということに他なりません。

この辺りの方言かもしれませんが(調べてもどこにも出てきません)、私の母は、メリハリが無い様を「ヌメたこ」と言っていました。

ヌメヌメしたタコのように、掴むべき凹凸が無いという意味でしょう、「ヌメたこのような人間にはなるな!」としょっちゅう聞かされて育ったものです。

上から目線を煙たがる人は、ただ堕ち行くだけ

そんなこんなで、『タメ口』は、

  • 勉強しないことを正当化するようになります。
    もっと言えば、「勉強などバカのすること」と蔑視するようにさえなります。
  • 先生なんて偉そうにしてても、僕と大して変わりないんだもん!
    僕は僕で「世界に一つしかない花だもーん」(これは、本来全力を尽くして傷ついた人だけに贈られる言葉です)

  • 一事が万事。全てのことに慣れ合いを持ち込みたがります。
  • 初めての店に入っても、「おばちゃん、早よしてーやぁ。」とか・・。
    「高校生の分際で何様やねん。」と思うようなことを平気で言います。
    上から目線を極端に忌み嫌います。(本来は、みんながそれで一人前になっていくのですが…)

  • 一歩井戸の中から飛び出すと、礼節もわきまえられない人、あるいはメリハリの無い人と評定されます。
  • 気が付けば、何よりも大切な人生の分岐点でマイナス評定を下されて辛苦を舐めるクセがついてしまうことに繋がります。(堅気の真っ当な会社には就職できません。)

さて、生活の中で、やれば充実感が味わえるような何かの習慣を身に着けるように育てられているのであれば、『タメ口』になることは少ないでしょうし、使ったとしても相手を選んで使い分けることも覚えるでしょう。

たいていは、何の習慣も付いてなくてダラダラした毎日を過ごしているような子に、先生への『タメ口』は多いようです。

違う角度から見れば、ひょっとして、親とのコミュニケーションの貧しさを先生との関係で埋め合わせしようとしているのかもしれません。

ですから、何でもいいですから充実感を味わえるような何らかの習慣を身につけさせるように導く努力・工夫を含めて、言葉遣いは徹底的に躾ける必要があります。

それが出来れば、『タメ口』からの脱却も含めて全ては好転し始めます。

『タメ口』は親の躾以外の何物の結果でもありません。

そして、躾は、ありふれた日常コミュニケーションの積み重ねの中でしか有効化されることはないのです。

いずれにしても、一事が万事!
日常が規律の立たない生活のくり返しは、対外的に直面するあらゆる場面でも規律が立たない人間であることを露呈してしまいます。