ミヒャエル・エンデとインターネットバブル

ミヒャエル・エンデとインターネットバブル

2000.05.07著

ミヒャエル・エンデ

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2000年に突入した本年は、昨年とは比較にならないほどインターネットの世界が目まぐるしく蠢いているのが肌で感じられる。

「IT(情報技術)」なる言葉を目にし、耳にする機会は毎日いたるところで洪水のように溢れている。

猫も杓子もインターネットに何らかの形で関わろうとしているのは当然の流れだと思うのだけれど、このこと自体がとりも直さず、インターネットは何も一般社会と違った特別な領域ではないということを示唆する一つの逆説的な象徴に過ぎないと言ってしまえば、あまりにも醒めた見方だろうか。

閉塞しきった一般社会に大きな恵みを還流するというほどのエネルギーが「IT」には潜在的にあるのだろうか?

理論的には、当然その革命性に異論はないが、人間社会全般にとって恵みを還流するかどうかは全く別問題であり、この革命性に今まで以上の期待値を持たせることは残念ながら出来ないだろう。

その上、インターネットはそれ自体が持つ特異性によって、経済ベースで考えた場合においては、より多くの参加者に恵みを分散するものではないことが、一般の社会よりもより特徴的だということをよく認識する必要があるのではなかろうか?

資本が「IT」に本腰を入れてGOをかけて来た以上、やはり、この領域も一般社会と同様に冷徹なまでに資本の論理が支配するようになるのは時間の問題だということもある。
そしてその時間というのも、はるかに瞬間的な速さで通り過ぎるだろうと思われる。

インターネットで誰もが起業できる時代は、小さな個人にも夢とチャンスが無限に拡がり得るという期待感を彷彿とさせるのだが、それも今やインターネットがメジャーになると同時に既に幻となったと考えた方が無難であろう。

インターネットをここまで牽引して来た者が結局何の恵みをも受けずして消えていくということの方が当たり前なのである。

とりわけ、最も危惧すべきは、異常にまで煽られる「IT神話」に人間の欲望が見境なしに殺到することなのだ。
これは、かつてのバブルと何ら本質的に変わりの無いものである。

理念としての「資本」は既に過去の遺物となり、もはや何物をもってしても制御できない「人間の欲望」という怪物だけが無政府的に徘徊している。
そんな構図が浮かび上がる。
社会主義ではなく、皮肉にも「欲望」が「資本主義」を駆逐した!

IT関連の株が異常な価格を付けたり、あるいはその後急降下したり、情報に踊らされて、実体の伴わないマネーゲームの格好の餌食になっているようなアホらしい現実が生まれているのだ。

私たちの日本社会が今も、かつての「バブル」のツケに脅かされながら現在に至っているという事実をよく反芻しなければならないというのは誰もが唱えるありきたりな説ではあるが、どうも肝に銘じて過ちを繰り返さないという雰囲気はどこからも伝わって来ないように思える。

バブルのツケの苦しみを、性懲りも無く再び違った形のバブルで補完しようとする短絡衝動だけは避けなければ、せっかくのIT自体の持つ有効性・客観性をも台無しにしてしまうのだが・・・。

私たちの親の世代から、この日本を支えた「技術」をはじめとする、まともな「営み」が、昭和50年頃を境にして、次々と「金融」という怪物に隷属していくという事態に今も何ら変化はないのだ。

ミヒャエル・エンデが憂慮した「金融システムのありようを変えない限り人間の未来は無い」といった意味の言葉はいつまでもタブーとして無視され続け、そして風化していくのだろうか。

私自身はエンデを最近になるまで読んだことも無く、概要を知った今もほとんど読んでいない状態なのだが、私自身の価値観とこれほどオーバーラップする著名人が存在したとはと、力強さと安心を覚えざるを得ない。

皆様も、是非、ミヒャエル・エンデ館を訪れられて、「エンデと金融経済」のページなどをお読みになっては如何だろうか?

私自身も、「エンデの遺言」をじっくり読んでみたいと思っている。
館長の森陽子様とは、ある教育関連のメーリングリストでご一緒した時代があり、実は、それがきっかけで初めてエンデに接したという体たらくだった・・・。

ミヒャエル・エンデについて~現代における世界に無比の良心~

2010年追記

エンデといえば、その代名詞ともなっている作品は『モモ』
おそらくファンタジーとメルヘンの最高峰ではないかと思います。
『モモ』に限らず、エンデの繰り出した作品はその全てが深い洞察と愛に満ちています。

おそらく、政治屋やホリエモンが如き人種は、こういう類の本は読んだことはないでしょうね。
自分の経済的快楽が善であり徳であると思い込める現代のソフィストたちとは異次元の世界ですから・・。

ネットで学習相談に乗ることも多いのですが、やはり、しっかりと自分を見つめようとしている子は読んでいる子が多かったですよ。

通訳や翻訳に進みたいという子には、「ドイツ語の原書で読めるように頑張ろう」というような話をしました。

真に社会から尊敬されるような品格ある人に育てたいと考える多くの親御さんには、是非とも子どもさんが読むように仕向けてあげて欲しいと願います。
僕は、迷うことなく、親が子どもに読ませたい作品のNo.1にはエンデを挙げさせて頂きます。

何故なら、エンデは最も素晴らしい世界の良心の一人であることは間違いがないと思うからです。

世界は必ず『エンデの遺言』に耳を傾けざるを得ない時が、必ずやってくるでしょう。

エンデのメルヘンの中でも、最もお気楽に楽しめる作品が『魔法のカクテル』

私は、あえて第2位のお勧めとしました。

小学校低学年からでも読め、大人もとても楽しめる珠玉の作品で一気に読んでしまいたくなるタイプの作品です。

ウイットと風刺の効いた『魔法のカクテル』の味わいにあなたもきっととりこになるでしょう!!

エンデの『モモ』を読まずに人生を生きるとすれば、これほど時間の無駄遣いはないでしょう。

エンデの『モモ』を読まずに人生を終わるとすれば、これほど可哀そうなことはないとすら思います。

『モモ』は、それほどの輝きを持つファンタジーです。

これを読んで何も感じないのであれば、それは、すでにリバタリアニズムに侵され尽くした状態を表わす以外の何ものでもないでしょう。

小学生から読めますが、その真意を汲み取るには繰り返し読むというある程度の時間と成長が必要です。

私は、彩を添える亀さんカシオペイアが大いにお気に入りです。
人間にとって『時間』とは何か? とともに、『時間銀行』でのお利息という部分で、エンデの金融に関する洞察とも大いにオーバーラップし、その部分を対比して社会を見つめ直すのも面白いのではないでしょうか?

『エンデの遺言』にて示されているエンデの警鐘は、この時代から育まれていたことが実によく分かります。
現代社会において、世界が考えなければならない課題の全ての根はここにあると私は思います。