アインシュタイン

先日記事にした「脳細胞を働かせてちょう題バルマー系列の規則性を発見せよ!(1) | 第4問「ボーアの原子模型に寄与したバルマー系列の発見は高校生の君にも辿れる!」は、もちろん高校生だけではないと思うのですが、予想以上にアクセスが多く『学力低下』などと叫ばれる状況の中での対照的な現象として何だか安堵した気持ちになりました。

『学力低下』というネガティブなテーマに関しては様々な議論があります。

僕自身はと言えば、主に高校生を指導していた90年代半ばにはそれほど感じることはなかったのですが、やはり昨今は『学力低下』を厳然たる事実として感じざるを得ないところはあります。

僕が、そう判断するのは次の根拠に依ります。

  1. 大学院での一つの研究に過ぎないとは言え、愕然とするような小学生の学力の実態に関するフィールドデータを目にしたこと
  2. 他のサイトを介してZ会のスタッフから目に見えて数学の学力は落ちてきていることを聞いたこと
  3. 共著の現職教師2名ともが、明らかに『学力低下』を感じて補強に苦労していること
  4. 我が下の子どもが中学1年から完全実施となった『ゆとり教育』での教科書を見て、「これはないよな!」と感じたこと

これらの実感に加え、『学力低下』を否定する説得力のある材料は見つからなかったこともあり、『学力低下』は確実であるというスタンスで語らざるを得ません。

但し、『学力低下』という現象そのものではなく、これをもたらしてきた原因の中に、君たちにも見つめ直せること、見つめ直してほしいこととして語るのが本筋ではないかと考えて書いています。

一度、アインシュタインの次の言葉に耳を傾けてみませんか?

『私の学習を妨げた唯一のものは、私の受けた教育である』

アインシュタインだからこそ言える言葉ではないかとの感じ方もあるとは思うのですが、僕は、これは誰にも当てはまる言葉だと思うのです。

確かにアインシュタインだけではなく、ノーベル賞クラスの方の言説からは共通して汲み取れる勉強に関する捉え方ですが、逆に言えば、それが分かっていたからこそ論功のある仕事が出来たと考えることができるのではないでしょうか?

即ち、君は制度から受ける教育というものに一方的に、過度に期待するところで自ら制動をかけているのかもしれないよということです。

別な言葉で言い換えれば、「学習とは制度から受けるものだ」「知識は人から教えてもらうものだ」と思い込んでいるだけの受身が脚を引っ張っていることもあるのだということを今考えてみて欲しいということです。

僕たちが「帝都大学へのビジョン」で書いている「自分だけの独自の勉強タイムという軸」は、要するにこのことを具現化・具体化したものです。

僕たちは、如何に常識的な考えが人を縛り意欲を減退させるかを知っていますから、少し表現としては過激なところがあるかもしれませんけれど、極端な話、授業など聞かなくとも、いや聞かない方がずっと勉強が好きになるということは大いにあることだと言ってしまえるほどのことなんですね。

僕たちのような凡庸な人間ですら、つくづくそう思うのですから、君たちが「勉強は人から教えられるもの」という常識に縛られていることはあるにしても、「授業が面白くないから勉強しない」というのは言い訳に過ぎないということを静かに考えてみて欲しいんです。

『学力低下』は、要するにこの言い訳度が広い中間層に拡散してきているということなんだと僕たちは分析するわけですが、何もなしにそうなるわけではなく、背景には、これを助長する社会的な要因がますます追い風として強くなってきているという社会状況があり、これと対応していることが大いに類推されます。

ですから、その背景をクリアーにしていかないと根本的な解決にはならないわけですが、その背景とは、

  1. より主語的な要因として、「勉強して世の中の役に立つより、儲けて豊かな生活を手に入れる方が楽で賢い」という価値観、もっと現実的な物言いでは、「勉強して良い会社に入っても、勉強せずにダラダラ生きても大差は無い」という価値観が定着していること
  2. ここに、ゆとり教育と携帯文化が共振を起こしてしまい、述語的な要因が完成してしまったこと
  3. 「学力低下の背景~過剰サービスがくれる”ひ弱”」で記したように、親の躾の頓珍漢さや一般社会の過剰なサービス合戦が輪をかけていること

の3点に尽きるかと思うのです。

ここで少し考えておいて欲しいのは、今は過去の遺産によって残り少なそうな安穏さに甘えていられますが、この安穏さが長く続く保証はどこにも無いということです。

そして、過去の遺産は、当然ながら君たちが作ったものではないということです。

少し話は変わりますが、本来のマーフィーの法則は『失敗する可能性のあるものは、いずれ必ず失敗する。』というもので、世に有名なジョセフ・マーフィーの成功法則とはある意味表裏関係にある言葉なんですね。

製造業に携わっている方なら、これほど骨身にしみて分かる言葉はないだろうと思うのですね。
どこかに不安を抱えながら作ったものは必ず壊れますわ!(笑)
徹頭徹尾、自然の摂理には逆らえないということです。

考えてみれば、私たちが作り出した社会も例外ではありませんよね。

不安要素が噴出してきた現代社会こそ、ある意味この法則にある「いずれ必ず失敗する」時を待っていると考えておいた方が無難だということも忘れないで欲しいのです。

同じく、アインシュタインの言葉に次のような言葉があります。

『教育とは、学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に自分の中に残るものをいう。』

『自分の中に残ったもの』で自分の生活を、自分の人生を、日本の社会を作っていかなければならないということに他なりません。

私たちも社会人になって働き始め、初めてジワジワと分かってきたことですから、君たちにこの言葉を分かってほしいなんて無理な要求はできません。

ただ、「そういえば、ガリレオとかいうおっさんたちが、なんか言ってたな」なんて思い出して貰える時が来るのであれば、僕たちにとっては価値のあることだと考えているばかりです。

『自分の中に残ったもの』とは何でしょうか?

端的に言えば、誰にとってもは因数分解や二次関数そのものが大事なのではなく、これらを理解しようとした君たちの「脳の軌跡」、あるいは「精神の汗」こそが、自分自身や社会の裾野を作っていくということになるでしょうか。

それこそが、『叡知』という一言で表せるのではないでしょうか?

君のゆとりの時間を占有したであろう携帯やゲームが君の叡知を育んでくれたでしょうか?
それは、遺産として君にも社会にも残るものだったでしょうか?
その辺りを静かに見つめ直して欲しいと願うばかりです。