介護のこと

僕が介護に直面したのは、2009年5月頃からでした。(母83歳)
このとき、母は右目が見難くなってクシャクシャするということを盛んに言うようになり、7月最初に、それでは目医者に行ってみようかと言うと、行ってみるという返事が返ってきたのです。

世間一般では何もおかしくはない普通の光景なのですが、僕にとっては「エッ!」と叫ぶほどの衝撃だったのです。
これは、よほど目の状態が思わしくないのだと思ったわけです。

と言うのも、僕が生まれてからこの方、母は病院に行ったことはないどころか、薬さえ飲むところを僕は見たことがありません。
薬に頼らず、できるだけ自然の治癒力で治すことが母の信念でした。

例えば、誤ってやかんを持つ手を滑らせ、熱湯を片足の全体に浴び、大火傷を負ったことが2度もあるのですが、そのときですら、ジャガイモを擂ったもので全面湿布をして、跡形もなくきれいに治してしまったのです。
そんな母が病院に行くというのは、よほど不快な感じが講じていた以外の何ものでもありません。

近所の眼科に娘に付き添ってもらい受診した結果は、閉塞隅角緑内障寸前の狭隅角
そこで、急遽、知人の意見などを参考に、評判の高い尼崎市塚口にある遠谷眼科で受診することとしました。

遠谷眼科は、評判通りさすがに混んでおり、予約無しでいったもので、恐ろしく時間がかかりました。
結果は同じ。これは、院長の判断を仰がねばならないということで、別の日に出直し受診を受け、最終的には、右目は最短で院長直々の白内障手術を受けると同時に、後日、普通の白内障レベルであった左目の手術も受けることになったのです。

遠谷医師は、京都大学への入学がおそらく僕と同期になると思われます。

そして、翌2010年5月頃まで、母は、まずまず目としては快適な生活レベルを送ることになりますが、この年の2月頃より、自分で食事を作る気力がプッツリと切れたようでした。

そのため、毎朝出勤した僕が、母の食事3食を作る習慣が根付いたのです。
この食事作りのお話は、このシリーズの中で後日執筆したいと考えていますが、こうやって母は私を育てたんだという思いが強く残る経験となりました。

さて、その後6月頃より、母は右目がゴロゴロとして開け難いなどの違和感を盛んに訴えるようになったのです。

3月の6ヶ月検診を母は少し風邪気味でキャンセルしたこともあり、再受診すると、角膜内皮細胞が非常に減少しており水疱性角膜症になっているとのことで、左目が健康であるから生活には支障はないが、ゴロゴロ感・不快感は、角膜移植をしない限り取れないということでした。

そして、角膜移植手術まではすることはないと母も僕も考え、2010年年末を迎えるわけです。
おおよそ、この1年半の間、3食の食事と1日4回の目薬投薬、美容院・買い物などへの付き添いが僕の介護の始まりでした。

そして、母が極度に悪くなっていく出発点となる2010年年末より、猛烈な看病と介護が始まることになります。


ここで、今後このシリーズの中で述べることを分かり易くするために、そのあたりの経緯を要約しておきたいと思います。

他人の病気や介護の情報が何ほどの役に立つのかわかりませんが、少なくとも同じ病気を持つ方には有益になる情報や心の支柱となる情報にまとめたいと考えています。

  • 2009年8月
  • 閉塞隅角緑内障寸前の狭隅角治療のため、最短での右目白内障手術
    ナチュラルな認知症は、この前年ぐらいから始まっていたのだと思います。

  • 2009年9月
  • 左目の白内障手術

  • 2010年1月
  • 友人グループで恒例の1泊近場温泉旅行。最後の旅行となる。

  • 2010年2月
  • 食事を作る気力スイッチが切れたのか、僕が3食を作るようになる。

  • 2010年5月
  • 毎日のように右目のゴロゴロ感などの違和感を訴える。

  • 2010年6月
  • 右目、水疱性角膜症と診断。最善は角膜移植手術必要と進言される。
    この頃より、時々、少し足が浮腫んだ感じが見受けられる。
    また、2009年ごろから背中の痒みを訴えていたが、その頻度が多くなったように思える。

  • 2010年12月28日
  • 突然、左臀部の痛みで左足が非常に動き難い症状。介助無しには歩行困難。

  • 2011年1月3日
  • 僕の家族とすき焼きで正月を祝う。昔ほど食欲はないが歳にしては充分。

  • 2011年1月8日
  • 右わき腹の辺りの痛みが発生し、動くと七転八倒。トイレにも這っていくことも困難。

  • 2011年1月11日
  • 車椅子付きの介護タクシーでM病院に診察に行くも、レントゲン検査中に精神的ショックを受け、以降の検査を拒否状態。
    ただ、右肺下部に胸水が溜まっているらしきことが確認できた。

  • 2011年1月14日
  • ますます右わき腹の辺りの痛みは激しくなり、手足の浮腫みも大きくなる。
    最寄の内科医に根回しをした上で、往診にて救急でS病院に救急搬送する段取りで入院に至る。

  • 1回目入院(1/14~2/14)
  • 診断結果は、原発性胆汁性肝硬変(PBC)肋骨微細骨折
    低アルブミン血症が著しかったが、薬治療の結果、2週間程度で胸水、手足の水は見事に引き、肝臓の数値もいたって改善。
    入院中に介護認定、及び、特定疾患受給の申請を提出。

  • 2011年2月14日
  • リハビリまで終えて、元通りとまではいかないがそこそこ歩ける状態となり、一件落着の様相で退院。僕の車で自宅に戻る。

  • 2011年2月14日~23日
  • 自宅では特に大きな問題はなかったが、こむら返り(この頃は足、後に手)がかなり頻繁に起こるようになる。

  • 2011年2月23日
  • 自宅でも良好な状態であったが、退院後初の検診のこの日、γ-GTP、ASTなど肝臓の数値が異様に悪化との検査結果。2度目の入院を余儀なくされる。

  • 2回目入院(2/24~3/11)
  • 診断結果は、自己免疫性肝炎2型。ウルソ増量治療により数値改善。
    この辺りから、妄想的な会話も少し多くなったように思えます。 このときもリハビリまで終えて退院に至り、僕の車で自宅に戻る。

  • 2011年3月11日~18日
  • 自宅でも特に大きな問題はなかったが、こむら返り(この頃は足より手が多くなる)が毎日決まって20時ごろ起こる。
    このとき、介護サービスで先行実施していたベッドでの生活となる。
    トイレ段差除去やお風呂の手すりなどを利用。
    また、初のヘルパーの介護を受け、また僕は始めてお風呂の中にまで入り、シャワーチェアーに座らせてシャンプーでの洗髪を2度行う。
    これが、母が自宅のお風呂の湯船につかった最後となる。

  • 2011年3月18日
  • 2回目の退院後初の検診。外来で車椅子に座り待つ間、お尻の下の痛みが復活したようで気分の悪さも訴え座っていられない状況。
    即座に寝かせて待たせてもらい点滴を受けて、肝臓自体は悪化の傾向なしとの診断で帰宅。

  • 2011年3月18日~23日
  • この間、右臀部痛みが増強し、食欲もかなり減退する。
    今回はベッドで寝たままで、リビングに連れてくることもできない。
    痛みのため、ベッドをリクライニングしての介助での食事となる。
    トイレに座るも痛みのためほんの数秒も座れないときもあり、おしっこが出にくくなることで、かなりのストレス状態。

  • 2011年3月23日
  • 右臀部痛みが激しく、本人の希望により深夜救急にて再入院。

  • 3回目入院(3/23~4/4)
  • 整形外科受診にて、右臀部痛みは、坐骨骨折と診断。
    前回の肋骨微細骨折も含め、肝性による骨粗しょう症
    ロキソニン投薬で徐々に緩和するも完全に痛みは取れず。
    トイレに座っておしっこが出るときもあるが、導尿にて排出することが多くなる。
    肝臓的には、肝性浮腫・横断とも軽減し良好も、食欲は不振、入れ歯を嵌めることが出来なくなってくる。
    ともかくも痛みが緩和してきたこと、肝臓的には特に問題がないことで退院に至る。
    (本人希望)当然、歩けず、介護タクシーで自宅に戻る。

  • 2011年4月5日~7日
  • 自宅にて初めて本格的な介護サービスを受け始めるも、良かったのは初日のみ。
    6日は友人グループの来訪にも、ほとんど目をつぶった状態。
    7日昼食中あたりから、腹部の痛みを訴え、その後午後はよく睡眠していたが、夕食ごろから再び腹部の痛みを訴え、7日午後9時ごろ、本人の希望で再び救急搬送する。

  • 4回目入院(4/7~4/9)
  • 8日お昼前、結腸穿孔による急性腹膜炎を告げられ、外科手術か緩和加療かの選択を迫られることになる。
    本人耐術能を考慮すると外科手術の成功可能性は極めて低く、もし成功しても肝不全が必発であり、これらを乗り越えても人工肛門での生活となるとなれば、母のプライドと予後のことを考え、緩和加療を選ぶことに決断し、縁のある人を呼び寄せる。
    モルヒネによる緩和加療で、痛みは取れた状態にて推移。

  • 2011年4月9日
  • 午前7時44分、僕の看守る中でその生涯を終えました。


介護の問題は誰もが避けては通れない問題です。
私の母は、とにかく病院に行かない人でしたから、このまま健康でいてくれるだろうという何の根拠も無い希望的観測だけで、何の心構えも準備もないままに介護に突入したのでした。

また、私の義母は、もともと糖尿病を持ちながら病院にも定期的に通っていた人ですが、こちらも、連れ合いを亡くしてから急激に認知症が進んでしまったのです。

ただ、僕のように、親の実家を仕事場として常に親の日常に接していたようなケースは特殊であり、また、実際の介護も危機一髪の白内障というところから緩やかに始まりましたから、条件的には非常に良かったと言えるでしょう。

あなたの場合は、きっと、親御さんとは遠く離れて暮らしている場合や暮らしてきた場合が多いでしょうから、先ず、親と充分に対話をし親を知らなければならないと思うのです。

誰もが、介護の問題は楽観的に考え、出来る限り避けて通りたいものですが、必ず、そのときはやってくるのですね。

そして、いつどうなるか分からないということは、僕たち自身の側にも言えることですから、もし僕たちに何かが起これば、介護される親は孤立することになってしまいます。
いろいろなケースを想定しておかなければ、いざのときの対応が出来ません。

そういう意味からも、本サイトを通して、僕の母の病気を持ってしまった方を親に持つ方や、これから介護に直面してくる方に少しでも役立つ情報をお届けできればと考えています。

-2011年4月21日-

介護のこと 目次

  1. 001:拝啓 母上様 ~愛別離苦と五蘊盛苦のただ中で~
  2. 002:原発性胆汁性肝硬変(PBC)
  3. 003:もんじゅとふげんと強いもの勝ちとリバタリアン
  4. 004:拝啓 母上様 ~六道輪廻 裁きの日に~
  5. 005:満中陰 ~唯物と唯識の間で~
  6. 006:京都 嵐山 松籟庵 大河内山荘
  7. 007:巧言令色 利を以って合する者
  8. 008:千人針 おひさまの視聴率に添えて
  9. 009:遥かな尾瀬~自然と生命の聖地~
  10. 010:初盆精霊お祭りへの準備
  11. 011:初盆ですよ!
  12. 012:阪神タイガースと虎風荘寮長の思い出

人気記事ランキング(通販・CAD以外)

当サイト情報・文化ページで大変アクセス数が多く閲覧時間が長い人気ページのご紹介です。

ページの先頭へ